| 孫兵が二匹足りないと騒いでいる。 毒虫探しが一段落してから一日が経って。 捕らえた虫の数を数えた孫兵が気づいてしまったらしい。 やはり数を知っていたのかと思いながら、藤内は内心冷や汗をかいていた。 二匹というのはもしかしなくても藤内が捕まえた分だ。 件の厠から逃げ帰る際に放ってしまった虫籠、その中に入っているのである。 しかして孫兵には言えずにいた。下手を言ってじゃあその厠へ取りに行けと言われたら敵わない。それに正直言うと昨日のことは恐ろしいやら情けないやらで思い出したくもなかった。 それだから、午後の授業が終わるまで彼に対し頑なに沈黙を守っていたのだが。 三年生全体で行われた実習が終わって、ぞろぞろと連なる列の後ろを歩いていたとき。数馬が思い出したように藤内に問いかけたのである。 「そういえば昨日、帰ってきたとき虫籠持ってなかったけど、どうしたの? 孫兵に渡した?」 余計なことを……と藤内が青くなる前に、それを耳ざとく聞きつけた孫兵が絞め殺さんという勢いで食いついてきた。 「そういえばお前から虫籠を受け取った記憶がないぞ! 藤内虫たちを一体どこに隠したっ!」 「孫兵そんなに強く衿を掴んだら藤内窒息しちゃうよ」 「分かったじゃあ放すからさっさと言え今すぐ言え」 めちゃくちゃな言い草に、藤内は咳をしながら沸々と怒りを感じた。 元はといえばお前が迂闊なのがいけないんじゃないのか。 何度逃がしても逃がしても逃がしても懲りないでまた逃がす。その度に周囲に迷惑をかけて。それならば、それならばいっそのこと毒虫なんて飼うのやめればいい……! 気がつけば数馬はぽかんと呆気に取られたような顔をしていて、孫兵は裏切られたような、傷ついた顔をしていた。 肩で息をする。 全てぶちまけてしまったのだ。激情の全てを。気づいたときにはもう遅く、孫兵はぐっと唇を噛み締めて走り出していた。数馬はといえばまだ呆けた顔だ。今起こったことを飲み込めていないのかもしれない。 後悔が波のように襲ってきて、藤内は孫兵の走っていった方向を所在無く眺めた。 うわあ最悪だ、と頭を抱えたくなる。 心にも無い……いや少しばかりは不満に思っているような処はあったが、彼を傷つけるようなことを言うつもりはなかった。 それなのに、あんなに怖い思いをしたのは彼の所為だと八つ当たりのように思って、あんなことを。 本当に、最悪だ。 孫兵に謝らなければいけない。 その為にはまず、昨日放ってしまった虫籠を取りに行こうと思った。恐ろしさは記憶に新しいが、そうも言っていられない。覚悟を決め、強敵に挑むような心持で、藤内は厠に向かった。 しかし近づいてくるにつれ、足取りが重くなってくる。 誰かと一緒に来れば良かった、と今更ながら思った。 数馬でも連れて来れば良かったのだが、意地のようなものが引っかかって頼むことができなかった。 友人に情けないところは見せられないというのも、重い足取りの中思えばまったくくだらない理由だ。 それでも足を進めればやがては辿り着くのである。 微かな風が頬を撫ぜて、生き物のように戸が揺れる。絡み合う木々の葉も揺れ、時折寂しげにはらはらと落ちてきて。 ごくりと喉を鳴らして、藤内は辺りを見回した。文字どうり“放って”しまった為、正確な場所は分からないが、そう遠くないところに落ちているだろう。 はたして虫籠は四つほど並んでいる厠の一番端に落ちていた。ついでに虫取り網もある。 恐る恐る近づいて、ちょいちょいと足で突っつく。中でかさかさと這いずる音がした。どうやら虫たちはちゃんと入っているらしい。 ほっと息をつく。屈んで籠を手に取った。網も一応学園の備品だったりするので回収しておく。 きぃきぃと戸が揺れる音は聞こえるものの、昨日のような謎の声は聞こえない。 あれは幻のようなものだったのかもしれない。けれど不気味なことに変わりはないのでさっさと背を向けると。 ――――な、く―――― なく? たちまち藤内の足が石のように重くなった。泣く? 泣くってどういうことだ!? というか、やっぱり昨日の声は気のせいじゃなかったのか。冷や汗をかきながら、藤内はじり、と後ずさった。 それ以上足が動かない。自分の息遣いだけがいやに現実的に聞こえる。向こうは自分がいることに気がついているのだろうか。 そして、 まただ。 妙な既視感。昨日中断せざるをえなかった思考が頭をもたげてくる。 すすり泣きが聞こえる。実際に聞こえているのではなく、遠い日の記憶、幻の声。 暗い、厠の裏で、誰かが、泣いて、声が、夜風に、流れ、て。 『諦めたく、ない。諦められない』 『それならそれでいいじゃないか。何を言われたって気にすることなんか、』 ないんだと。 誰が。自分が、誰に。そう、見知った相手に。 何で、どうして今まで忘れて。 思い出した途端、恐怖で動けない足が徐々にほぐれてきた。 冷静になれば、今のは人の声に他ならない。裏に誰か、そう、あの時のように誰かいるのだ。 金縛りが急に解けた軽やかさ。厠の裏へと足が進む。声の主を、一刻も早く誰か確かめたい気がした。裏へ回って―― 「あ」 「へ」 眼と眼が合う。きょとんとした視線と視線。一歩踏み出す。と同時に視界が横転した。え、と抜けた声が出る。虫籠と虫取り網が宙を舞った。 気がつけば。 藤内は頭から湿った地面に突っこんでいたのだった。 まるで、あの時のように。 |