日が沈むのを背中で感じながら、きり丸はひたすら走っていた。奥へ奥へと駆けていく程に山の木々は複雑さを増し、絡み合う。徐々に夜の闇が迫り、周りが暗く染まっていく。 此の山を根城にする山賊を退治して欲しい、それがきり丸に課された仕事だった。それほど大した奴らではないとタカをくくっていたのが悪く、三日程前腕に傷を負ってしまったが、もうこの前のような失敗をするつもりはない。 だけれど一度の襲撃で相手も警戒しているだろうし、さてどうしてやろうかと考えながら、しかしきり丸の心を占めるのは、先ほどの乱太郎との一件であった。 (幾らなんでもやりすぎたか) 自分を心配してくれる乱太郎を傷つけるのはごめんだったし、あの時はあれしか方法が無いと思った。けれど少し早まったかもしれない。乱太郎の見開いた瞳が頭にこびりついて離れそうもなかった。無事に帰ってきた後はまた喧嘩になるかもしれない。 仕方の無いことだとは思っていても、少しだけ後悔の念が過ぎる。 乱太郎は優しい奴だ。それは長年同室だった自分がよく知っている。優しすぎて時折不運だが、それでも乱太郎の性格がきり丸は好きだった。 それが最近はやけに不機嫌でぴりぴりしているようだ。特にきり丸自身のことになると、顔をきつく歪める。そんな顔が見たいわけではないのに。自嘲気味に思う。 (そういえばしんべヱもたまにああいう顔するようになったなー……。鈍感なしんべヱに心配させるなんて、俺ってばそんなに危なっかしいのか) はふっと吐いた白い息は、林の冷えた空気に掻き消された。鳥の声すら聞こえぬ静寂の中に。 冷たい空気が体の熱を奪っていくのを感じた。特に唇などかさついて冷え切っている。人差し指で庇うようになぞれば、また先ほどのことがぶり返してきた。 ――温かかったな、唇。 ふざけたわけではなかった。むしろあの場を切り抜ける為に真面目に考えた結果の行動だったのだが。 (あー、もう! マジ後悔) 長年の友人にあんなことをするなんて、本当に馬鹿げていた。乱太郎は驚いただろう。 いや、驚かせるためにしたのだが、もっと別の方法を考えれば良かった……なんてまるでいたちごっこである。考えても考えても。 考えないようにとかぶりを振ってみるが、効果は望めなかった。思い浮かんでくるのは只一人の顔。口付けた時のあの表情。 「……………」 冷えていた筈の体が急速にほてっていく。林の中の空気は変わらない、それなのにこの熱さは何なんだ。きゅっと唇を噛むと、血が集まって冷たさを失った。 あの夜もそうだった。 思い返す。本の三日ほど前のことを。怪我して帰ってきたきり丸は寝ていた乱太郎を起こし、ぶつくさ文句を言われながらも手当てしてもらったのだ。 ――あんまり心配、かけるなよ。 乱太郎の声がよみがえってくる。無造作に呟かれた、その言葉の何と温かかったことか。そして……どれほど痛かったことか。 (俺には重過ぎるよ、その言葉) 乱太郎の優しさ、それは嬉しい。しかしきり丸にとって彼の優しさは身を貫くような剣でしかないのだ。心配をかけるなだなんて。 言われても、願われても、どうすることもできないのだ。これだけは。もはや習性のようなものだから。 包帯を巻きながら乱太郎は言っていた。本質は変わらないのだから、と。確かに根っこの方は変わってないのかもしれない。けれど―― (ごめん乱太郎。俺ってば前より性質悪くなったかもしれない) 心の中で謝って、きり丸は木々を縫う。山賊の根城が近い。乱太郎のことを考えるのは一先ず止めだ。 唇を噛み頭を振って、きり丸はどうやって山賊を陥れようかと策を弄し始めた。日はもうとっくに沈み、周りは暗闇一色になっている。
きり丸は気づいていなかった。 いや、本当は気づかぬふりをしていただけなのかもしれない。 山の空気が纏わりつき、ほてっていた体温は冷えていく一方だというのに、かつて最も冷たかった筈の唇がまだ、微かに熱を帯びていることに。
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