今日は、今日だけは。 絶対に行かせてやるものか。
「そこをどけよ乱太郎」 「いやだ。どかない」 長屋の一室、障子戸の前に乱太郎は立ちはだかっていた。きり丸が困っているのは分かっているが、決してどいてなぞやらない。次第に眉を顰めていくきり丸を、乱太郎はひたと睨みつけた。 夕方、西日が障子に映える。戸を前に対峙する二人を朱に照らし、徐々に染め上げていく。きり丸の腕の白い包帯がじわりと血のように朱くなり、乱太郎はぞっとした。 きり丸が腕を怪我して帰ってきてからまだ三日と経っていないのだ。せめて一週間は安静にしなさいと新野先生からきつく言い渡されていたし、普段バイトに関しては寛容な土井先生も必死で止めていた。 それを知っているからこそ乱太郎は思う。怒りさえ沸いてくる。 (どうしてお前はいつもそうなんだよ!) 何故皆の気持ちが分からないのかと問いただしたい。は組の皆だって先生だって――わたしだって、心配しているというのに。何でお前はそれが分からないんだ! 心中を巡る感情に、乱太郎は唇を噛み締めて一層きつい顔できり丸を睨みつけた。するときり丸は眉を顰めるのをやめ、少々困惑したような表情で頭を掻く。 その態度に益々煮えくり返った。 きり丸はは組の中でも実技が飛びぬけている。乱太郎もそこそこ出来る方だが、どちらかというと頭を使うほうが得意。 農業を手伝っているおかげで体格は僅かに乱太郎が勝っているが、それもほとんど大差はない。正攻法でやりあえば乱太郎に勝ち目はなかった。 けれども、何としてでも止めなければならないのだ。怪我が完治していない状態で無茶をさせれば、最悪の場合命を落としかねない。この場を止める為ならば、泣き落としでもなんでもするつもりだった。 つ、と長い影が動き、乱太郎に近づく。先ほどまで困惑の表情を浮かべていたきり丸の顔には何の色も浮かんではいなかった。 整った顔立ち――それが表情を失くすとき、きり丸が真剣になった証拠だ。乱太郎は警戒しながら、それでも視線は彼から外さない。 きり丸の手が動く。 無駄のない、しなやかな動きで、乱太郎の方へと手を伸ばしてくる。無表情のままなのが、恐怖心と警戒心を煽り立てた。障子戸を守るように乱太郎は構える。四方からどんな攻撃がきてもいいように。西日に焼かれて真っ赤なきり丸の手が、近づいてくる。 「乱太郎」 飛び掛ろうとしたその時、きり丸の無表情な顔から出た言葉は意外にも熱を帯びていた。 切なそうな、愛おしそうな、そんな声。 一瞬、本の一瞬だけ――油断した。 唇に触れるもの。頬を包む両の手は温かいというのに、唇に触れてくるそれのなんて冷たいこと。まるで全てを拒絶するかのような冷ややかさに、乱太郎は瞳を見開いた。 「な――」 「ごめんな、乱太郎」 気がつけばきり丸は自分の横をすり抜けて、障子を開けているところだった。 止めようと、袖を掴もうとしたのに間に合わない。きり丸は怪我人とは思えない程素早い動きで夕焼けの中姿を消した。一度たりとも振り向かずに。 足の速さでは自信のある乱太郎だったが、追おうとは思わなかった。開け放たれた障子戸には背を預けることもできず、所在無さげに立ち尽くす。 あんな奴のことなんて知るものか。今度怪我して帰ってきても手当てなどしてやらない。包帯も用意してやら無い。何だあんな奴、人の気なんか知らないで。いつもそうだ。いつもいつもいつもいつも……。 悪口雑言、今ならどんな辛辣な言葉でも吐けそうだ。けれども、けれども。 「何なんだよ、あいつ」 何故あの状況であんなことができる。自由を奪おうとするわたしなぞ、張り倒し、殴り飛ばし、強引に振り切れば良いではないか。人をおちょくるのもいい加減にして欲しい……そう思いながら、人差し指で唇をなぞる。 冷たい口付けだった。けれども瞳を見開いた乱太郎は見てしまった。口付けるときの、瞳を一瞬閉じるときのきり丸の痛さに耐えるような顔。声以上に切ない表情。それを見てしまったから、だから刹那、動きが遅れてしまった。 きり丸が何を考えているのかなんて乱太郎には分からない。 あの行動に何の意味があったのかも、あの表情も。何もかもが分からない。 「泣き落としすれば良かったかな」 いや、せめて縋れば良かったのだろうか。 もうそれすらも分からない。 きり丸がいなくなった朱い部屋で、乱太郎はずっと立ち尽くしていた。
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