数馬の言ったとおり、孫兵は部屋に居た。
 ぼんやりと机に肘を突いて、虫籠を見つめている。

「孫兵っ」

 半開きだった戸に手をかけて叫ぶと、孫兵の肩が小さく跳ねた。目を丸くして呆けたような視線をこちらに向けてくる。けれどもすぐに表情は憮然としたものに変わった。

「一体何の用……」
「ごめん悪かった!」

 強引に遮って、藤内は頭を下げた。孫兵が意外そうに息を飲む音が聞こえてきた。
 頭を下げたまま、藤内は吐き出すように口を開ける。

「堂々としてろって言ったのはぼくなのに。それなのにあんなこと」
「覚えていたのか」
「いや」

頭を振る。

「情けない話だけど……さっき、思い出した」

 そうだ。あれは一年生のとき、学園に入学したばかりの頃。
 夜だった。暗い夜、長屋の厠はその時少し混んでいて、痺れを切らした藤内は、外にある厠に向かったのだ。
 用を足して帰ろうと厠の戸に背を向けたその時、夜風に乗ってすすり泣く声が聞こえてきた。

 最初は化け物の類かと思ったが、その声があまりに頼りなかったものだから、つい気になって声の方向に誰だと問いかけたのだ。

 声をかけるとすすり泣きはぴたりと……まではいかなかったけれども、ある程度収まって。
 代わりに、同じ歳くらいの少年の声が聞こえてきた。

 君こそ、誰。

 藤内が名前を名乗ると、声は躊躇ったように自分の名を伝えてきた。
 伊賀崎孫兵、と。

 

 

 好きなものがあるのだと孫兵は言った。
 それを諦めなければいけないのだとも。

「どうして諦める必要があるの」
「皆、ぼくの好きなものを良く思ってないみたいだから」

 すんと洟をすする。納得がいかなくて、藤内は眉を寄せた。
 
「だからって」

 素直に諦めることはないのではないかと思った。他人にどうこう言われたからって、自分が好きならそんなの全然関係ない。
 ましてや泣いてしまうほど好きなものなら。

「だからって、君はそれを諦められるの」
 
 孫兵がしゃくり上げた。何度も何度もしゃくり上げ、洟をすすって。
 その声を聞いているうちに、辛そうを通り越して強い憤りがこみ上げてきた。

「泣くなよ」

 少し怒ったような声になってしまったかもしれない。
 そう思いながらも、こみ上げてくるものを止められなかった。
 
「泣くぐらいだったら諦めるなよ。自分の好きなものには、もっと堂々としてればいい」
 
 しばしの沈黙が流れた。
 夜風が肌をくすぐってゆく。
 時折茂みの中からちろちろと虫の音が響いた。
 
「ほんとは……」
 
 孫兵の迷うような、弱弱しくも何かを望むような声。

「諦めたく、ない。……諦められない」
「それなら」

 答えは決まっている。

「それでいいじゃないか。何を言われたって気にすることなんかないんだ」 

 だからもう泣くなよ。そんな暗いところで、一人きりで泣くなよ。
 なあ、孫兵。



 
 ……とここまでならばいい話なのだが。
 この話にはまだ続きがあるのである。



 
 うん、と返事をした孫兵は、ぐすぐすと洟をすすりあげた後、「あの子達を迎えに行ってくる」と厠の裏から飛び出していった。当時はあの子達という表現に少しの引っかかりも覚えることはなく、素直に良かったと思ったものだ。
 
 さて、孫兵が去って暗闇に一人取り残された藤内は、冷えてきたことだし、さっさと長屋に戻ろうと足早に庭を進んで。
 
 大きな石に蹴躓いて勢いよく転んだ。

 何しろ夜目の利かない時分である。受け身をとる暇もなく、したたかに地面に顔を打ち付けた藤内はしばしの間気を失った。
 その衝撃か何なのか、起きたときにははて、自分は何故こんなところに居たのだっけと疑問に思い。
 とにかく土の感触が気持ち悪かったので、口をすすいで土を払って長屋に帰った。
 孫兵と会ったことも、交わした会話も、すっぽりと頭から抜け落ちていた。




「……というわけで」

 何とも阿呆な真相だ。今も昔も恥多き人生。孫兵も呆れてるだろうなと思ってちらと視線をやると、彼はやっぱり呆れていた。
 というか冗談のような話に呆気にとられているというのが正しいか。

「それは……そうか。それで……」
「そう、それがそれでそうなったわけ」

 これも傍から見れば阿呆な会話だよなあと思う。互いにそれ、それを繰り返して。麻痺していた情けなさという感覚が舞い戻ってくる。

「だけどそれはそれとして」

 仕切りなおすように孫兵が空咳をした。

「ぼくも迂闊だった。藤内にああ言われても仕方がなかったんだ。これからはもう少し気をつける」

 頭を下げてくる。孫兵が頭を下げるとこなどついぞ見たことがなくて、藤内は少し慌ててしまった。

「いや、ぼくがああ言ったのにそれを忘れて、無神経なことを言ってしまったのがいけないわけで……そりゃあもうちょっと気をつけて欲しいとは思うけど……でもお前は、毒虫たち飼うのやめたりなんかしないでくれ」

 たとえ誰に言われたってやめるな。
 好きなものを手放したりするな。

「やめるもんか」

 孫兵が顔をあげた。

「あの時ぼくは、絶対に好きなものを諦めないと決めたんだ。誰に何を言われたって……たとえ、お前に言われたって、諦めるつもりはない」

 強い、揺るぎのない声。
 一年の頃、厠の裏から聞こえてきた弱々しい声とは正反対の。

「……そうか、それなら良かった」

 孫兵はもうあの時のように泣いたりはしない。
 
 




 そして。



 今日も今日とて孫兵の元から逃げ出す毒虫たち。




「おおいそっちにいったぞー」
「さっさと捕まえろ!」
「安易に触れるなよー。刺されたら即座に医務室に」




 奔走する生物委員や保健委員、教師、同級生の声。
 それを飽きるほど聞きながら、藤内はうんざりとため息を吐いた。

「あいつ、もう少し気をつけるとかいって全然反省してないじゃないか!」
「だから慣れたほうが楽だって言ってるじゃない。もうそろそろ諦めなよ」
「それはそうかもしれないけどやっぱり納得がいかないっー!」

 思い切り叫ぶ。それこそあの校舎から一番遠い、厠にまで響きわたるように。
 だから叫ぶと虫が逃げるんだってば、とやけに冷静に数馬が呟いた。







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これで一応完結です。最初は少しホラーでシリアスチックにしようかなあと無謀なことを思っていましたが、いつの間にやらホラーやシリアスとは程遠い話になっていました。不思議です。

ところで作中、厠の裏で喜三太が何を呟いていたかというと、

「ナメクジさん全然いない」→藤内が名前を呼ばれたと勘違いした台詞。最後の「ない」だけが聞こえたわけです。ちょっと苦しいですが、恐怖のあまりの勘違いと言うことで…
そして泣く、というのは、「ナメクジさん」のメの字が抜けて、泣く、と聞こえただけでした。あれ、やっぱり苦しいな…。

とまあ、色々力量不足が目立ってましたが、個人的には藤内君を書けて楽しかったです。今度は他の三年生も出してみたいなあ。


最後に、ここまでお付き合いくださってありがとうございました!