首が前に傾いで、湯呑みに突っ込みそうになったところを引き戻される。まだ虚ろな瞳を向けて覚束ないながらも礼を言うと、助けてくれた同級生は怪訝そうな顔をしながら、書物やら何やらを文机に広げ、タカ丸の方へ視線を寄越した。
「疲れているようですが、予定通り行いますよ」
「んー」
生返事のようになってしまったのは頭の中が酷くぼんやりとしていたからだ。とにかく眠い。眠くてたまらない。
未だ手付かずのタカ丸の書をついでのように捲り、それから茶を口に流し込みつつ、滝夜叉丸は目当ての項を探している。
ぼんやりと隣を眺めながら、意識はまた遠くなり、体が傾くのが分かった。
すかさず衿が引っ張られる。
「火傷したいんですかタカ丸さん」
眼前に鎮座する湯呑みは、淹れてから時間も経ち、大分熱さが薄れてはいるが、触れれば火傷しないとも言い切れない。
仕様のない人だと言いたげな滝夜叉丸は、しばらく衿を掴んだままで、タカ丸の眠たい顔を覗きこんでいる。これじゃ彼はいつまで経っても宿題を片付けられないなと思って、大丈夫だと口に出すとやっと手を放してくれた。湯呑みは少し遠ざけられた。
「疲労しているのは分かりますけれど、もっとしっかりして下さい」
「うん」
「……私の話、ちゃんと聞いてますか」
「聞いてるよー」
ただ、聞いたそばから通り抜けてゆくだけで。
意味もなく顔を緩ませると、滝夜叉丸は呆れたような顔をして、後は知らんとばかりに目の前の書に取り掛かり始めた。すらすらと筆を滑らす姿に、凄いなあと感心する。
今日の実習はどうにも過酷で、大抵の授業や騒動にも慣れ始めていたタカ丸も早々音をあげてしまった。何とか無事に乗り切ったものの、疲労は常の比ではなく、あちこちがぎしぎし呻くわ力は入らぬわで、勉学に対する好奇心や気概等の前向きさが著しく減退している。今日はすぐに風呂に入って寝れば良かったと思うが、意外と真面目で厳しい滝夜叉丸は許してくれないだろう。
眠気ばかりが押し寄せぼんやりしているタカ丸とは対照的に、滝夜叉丸はまったく意欲を失った様子はなく、むしろ普段より一層勉学に勤しんでいるように思えた。疲れたら向学心に燃える性質なのか、そもそも疲れていないのか。どちらにしろ凄い気がする。
「滝夜叉丸は、凄いねえ」
「は?」
筆を滑らせていた滝夜叉丸が、何とも言い難い顔で所作を止めた。窺うようにタカ丸の顔を見て、軽く眉をひそめている。しかし数瞬後、彼の中で考えが完結したらしく、いつもの得意げな笑みを浮かべた。例の如く高笑いのおまけつきである。
「タカ丸さんもそう思われますか。まあ今更言われるまでもないんですがね。確かに今日の実習はけして楽なものではありませんでしたが、だからこそ私の真の実力を見せることができるというもの」
台詞は際限なく続き、子守唄へと変わってゆく。
もう限界だ、眠い。
首が傾いていくのを止めることができず、しかし微かに残った制動で、前に倒れるのだけは防ごうと試みる。
となると後ろか左右かしか選択肢が残らないが、後ろにも左にも支えが存在しない。じゃあ右だ、至極単純に考えて、タカ丸は頭を傾けた。だが重みに気付いた滝夜叉丸がこちらに体を向けた為、肩に預けた筈の頭はずり落ちてしまった。
ぎゃわ、と間の抜けた声が上がって、それは確かに滝夜叉丸のものであったが、何だかもうどうでも良くなって、タカ丸はそのまま身を委ねた。
滝夜叉丸は固まっていた。筆を握ったまま、視線を己の膝上に向け、鯉のように口を開閉する。顔色は青くなったり赤くなったりを繰り返して忙しない。
「な、ななな……」
ついて出た言葉はとても意味を成すようなものではなく、滝夜叉丸の顔色は益々不健康な色合いになってゆく。何がどうなり、この状況が作り出されたのか。考えようとするが頭は混乱するばかりで使い物にならず、形容しがたい思いに襲われる。
「おやまあ、何をしているのかと思ったら」
「ききき喜八郎お前何故ここに」
「何故ってここはぼくの部屋だからね。それより滝夜叉丸、随分大胆な事をするものだねえ。第三者の前で膝まく」
「大いなる誤解だ!」
いきなり現れ無感情な顔でのたまう喜八郎の台詞を遮り、滝夜叉丸はようやく働き始めた脳を必死に回転させた。しかし導き出した結論が、何かは知らんが問答無用でタカ丸を放り出す、だった辺り冷静さを取り戻せていたわけではなかった。
「ええい起きろ!」
「おやおや」
健やかな寝息を立てている男を力任せに引っ掴み、感情の赴くまま放り投げる。しかし握っていた筆まで放り出してしまった。悪いことに、それは墨をたっぷりと含んでおり、てんででたらめに舞い上がった後、べちゃ、と嫌な音を立てて机上に落下し転がった。
「あ」
半分ほど遣り上げていた課題のプリントの中心に黒々と広がる染みは、流暢に書かれた文字を潰していく。眺める二人の間に沈黙が流れるが、何も知らないもう一人の男は、部屋の隅に妙な姿勢で横たわり尚、健やかな寝息を立てていた。
滝夜叉丸は立ち上がった。
憤怒とも、憔悴とも取れるような顔で、ゆっくりと、本当に時間をかけて、タカ丸へと近づいてゆく。
じゃあぼくは風呂入ってくるよとどこまでも自分調子の喜八郎がさっさと戸を閉めた。
タカ丸も、そして本人でさえ気付かなかったが、実際のところ滝夜叉丸は疲れていた。
少なくとも、さほど難しくも無い課題を、最初から始める気が起きないほどには。
けれどもどれだけ疲れていようとも、やらねばならぬことがある。
決意と言い切るにはいささか短絡的で感情的。だが他に適当な言葉が見つからない。否、見つける必要がどこにある。未だ冷えない頭を抱え足を踏み出す。
やがて立ち止まり、すうと息を吸い込んで、おもむろに口を開いた。
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若松ハルキ様相互記念リク、タカ滝です。
普段より甘めに挑戦、したつもりなんですが、あれ…何か違うよねこれっていう代物に…。
綾部は友情出演(?)ギャラなしです。
若松ハルキ様、遅くなってしまって大変申し訳ございません!
リクエストありがとうございました。好き勝手書いてしまってごめんなさい…! どうぞお好きな様になさって下さい!
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