「ちょ、嫌だって言ってるじゃないですか」 懇願するかのような声と同時に、一束髪を掬い上げられた。丹念に手入れを施した自らの美しい髪がタカ丸の手でさらり、さらりと弄ばれる。 「お願いだよ、滝夜叉丸」 溜まってきた唾をもう一度静かに飲み込んで、滝夜叉丸は目の前の男を見つめた。猫のような瞳は真摯に輝いていて、普段緩やかな口元はきゅっと引き結ばれている。彼がいかに真剣かということは見て取れた。 それでも滝夜叉丸は首を縦に振るわけにはいかないのだ。もし迂闊にも肯定してしまったならばどうなるか分かったものではない。勢いに――彼の表情に流されては、いけない。 「タカ丸さん。何も私じゃなくともいいでしょう。確かに特別美しい私に執着するというのは分からないでもないですが、それにしても多少の妥協というものは必要なはずです」 思いつく言葉を一気にまくし立てた。無理やりにでも自分の調子を取り戻そうとの算段である。 しかし敵もさるもので、タカ丸は微妙に目線を逸らした滝夜叉丸の顔をしげしげと見つめ、 「滝夜叉丸じゃないと、駄目なんだ」 おちゃらけた表情など微塵も浮かべず、タカ丸は力強く呟いた。弄んでいた滝夜叉丸の髪の毛が、彼の細い骨ばった手から滑り落ちる。
喜八郎は滝夜叉丸の後頭部へと視線をやった。 ぐるぐると巻かれた黒い塊が天に向かって聳え立っている。無理やり表現するならこんな感じだろうか。 形容しがたい髪型を揺らして怒っている様は滑稽としかいいようがない。しかし正直に滑稽だといってやれば益々機嫌が悪くなること請け合いなので口には出さなかった。 喜八郎が考えていることなど露知らず、滝夜叉丸は怒髪天につく勢いで――今の場合まさに言葉通りの意味なのだが――愚痴り出した。 「……まったくあの男ときたら。幾ら私が美しく気高く艶やかでそこらの女顔負けの黒髪を持っているからといって、あんなに迫らなくともよいのに。しかも責任を取ってやるだなんて言っておいて」 喜八郎に言わせればうっかり頷いてしまった滝夜叉丸も悪いと思うのだが。 髪結いの練習台。普通に結わせるならば決してあの男は悪くはないのだが、新しい髪型の研究だなんて。タカ丸のセンスを考えれば、了解してしまった時点で奇抜な髪型になることは予想がつく。 一回被害に遭っているのに気づかなかったなんて抜けているとしかいいようがない。まあ分かってて勢いに呑まれたということもあるかもしれないけれど。どちらにしろ滝夜叉丸の方にも非があるのは否めない。 そう言ってやっても良かったが、面白いというより面倒くさい事態になりそうなのでやはり黙っておく。その代わりに先ほどから気になっていたことを指摘してみた。 「どうでもいいけどその表現は誤解を招くと思うよ」 一応親切心で注意したのだが滝夜叉丸はまったく聞いていないようだ。男に弄ばれたあげくあっさりと捨てられた女のような台詞を喚き散らす同室者に、喜八郎は成す術なしと視線を外した。 自分たちの部屋の前を通ってしまった人間はこの滝夜叉丸の台詞をどう解釈するのだろう。ただでさえ大きな声、どこまで響いているのか見当もつかない。 ――当分変な噂が横行するだろうな。 愚痴と自慢が交じり合った滝夜叉丸の話に、早々と飽きた喜八郎は退屈そうに小さく欠伸をした。
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