小さな羽の擦れる音が耳に煩わしくてたまらない。
 腕に降りたところを狙いすましてぴしりと叩き潰す。

「夏だねえ」
「嫌な季節です」

 また性懲りもなく飛び込んできた夏の虫もすかさず捉えた。幾度も繰り返される行為に若干うんざりとして口を引き結ぶ。
 ただでさえ額から浮き出る汗に辟易しているというのに。
 のんびりと腰を下ろしたタカ丸が、手団扇で首筋に風を送っている。

「暑いねえ」
「……先程から同じ言葉ばかり繰り返していますよね」

 夏だの暑いだの、気が滅入るような単語ばかりだ。彼は少し疲れたように笑って、べたりと寝転んだ。

「でも、さすがだね。ほとんど百発百中」
「私の美しい顔に虫刺されなどあってはいけませんからね」

 当然だと両腕を組んでみたものの、彼の汗が床に染みるのを見て、腕を下ろし軽く眉間を寄せた。

「タカ丸さん、こんなところで寝てないで、勉強始めますよ」
「えっ、何で」
「その為に私のところへ来たのでしょう」
「違うよ」
「……では、一体何をしにこの暑い中を来られたのですか」
「傍に居て欲しかったから」
「……」

 彼の真意を図りかね、滝夜叉丸はらしくもなく押し黙った。
 タカ丸はそれ以上台詞を続けるでもなく、また、こちらの言葉を待つでもなく、だらだらと横になったままだ。
 蒸すような暑さばかりが増していく気がした。
 沈黙に耐えかねた滝夜叉丸は意を決して口を開いた。

「それは……一体どういう」
「あ、ちょっと待って」
「え?」

 いきなり身を起こしたタカ丸が、滝夜叉丸の手の甲をぱしりと叩いた。焦れるような痺れに呆気に取られていると、彼は右の手の平を突き出した。見れば、微かな血の跡と、哀れに潰れた蚊の姿。

「駄目だよー、油断しちゃあ」
「え、ええ……」
「じゃあ、一寸眠るね。昨日蚊が煩くて、あんまり寝てないから」
「はあ……」
「期待してるよ」
「え、いやあの、何を」

 慌てて訊いたものの、さっさと目を閉じたタカ丸が返答するわけもなく。
 不可思議な期待をされたまま、滝夜叉丸は彼の顔を見つめるしかないのだった。




「寝不足ですか」

 人の顔色などどこ吹く風、といった性格の喜八郎に開口一番指摘されてしまえば、さすがに苦笑するしかなかった。
 夜通し予習をしていたとか、鍛錬をしていたとか、立派な理由じゃないだけ余計に。

「虫がね。気になって中々眠れなくって」
「最近増えてきましたからね」

 若干顔をしかめながら言う喜八郎の首元にも微かに腫れた後がある。
 彼はそこを掻きながら、落し穴掘るのも一苦労ですよと忌々しげに呟いた。

「それでも落し穴は掘るんだね。凄いなあ」
「当然です。一緒に掘りますか?」
「遠慮しとくよ。今日は委員会もないし、これからちょっと昼寝するつもりなんだ」
「そうですか。ならば、滝夜叉丸の傍がお勧めです」
「え? 何で?」

 言葉の意味が分からず瞬きすると、彼は無造作に汗を拭いながら、

「奴は、蚊が嫌いなんです」
「蚊が好きな人なんていないんじゃないの?」
「一匹たりとも逃がしません」
「それってつまり」
「こちらが何もしなくても、寄ってきた蚊を勝手に始末してくれる。こんなに楽なことはないですよ。最も……」
「じゃあ早速訪ねてみるね。部屋にいるかな」
「……先程はいましたね」
「うん、ありがとう」

 礼を言って走り出す。良い事を聞いてしまった、と寝不足なタカ丸は思いがけない情報に嬉々とした。
 所在が分かっている内に、彼の元へ急がねば。




「……蚊以上に煩わしい自慢話に付き合えればの話なんだけれど」

 一人残された喜八郎は、遮られた言葉を今更ながら呟く。
 まあ、あの人なら大丈夫な気もするが。
 どちらにしろもう自分の知ったことではないし、何より血を求めて寄ってきた羽音が煩くてかなわなかった。
 その虫を乱暴に叩き潰して、喜八郎はようやく作業に没頭し始めたのだった。