覗き込んだ川水は澄み切り、小魚の群れを映し出している。あまり気の進まぬ遠出ではあったが、偶にはこうして暢気に釣り糸を垂らしてみるのも悪くはない。釣果が思わしくないのは若干気にかかるが。

「釣れないねえ」

 離れて釣っていたタカ丸が竿を手に戻ってきた。当然のように隣の岩上に腰掛ける。
 釣りに誘ったのは彼の方であったから、てっきり慣れているものだと思ったが、針を扱う手は覚束ない。滝夜叉丸の方も釣りの経験は一、二度くらいのものだったが彼よりは上手いと思う。
 最も釣れなければ意味がないのだが。

「タカ丸さんは釣り初めてなんですか」
「うーん、前に一度だけね。もう五年前になるかなあ」

 ふにゃりと微笑む。通りで、と滝夜叉丸は彼の手を見つめた。どうにか餌を付け終えた針が水の中に沈んでいく。すぐ傍を魚が一匹ゆらゆらと泳いでいたが、結局興味もなさそうに通り過ぎていった。

「魚はこんなにいるのになあ」
「気長にいけばその内釣れることもあるでしょう」

 先に釣るのは私ですが、という生来の対抗心は心中に秘め、川を覗き込むタカ丸に声をかける。気の長い方とは言い難い滝夜叉丸が今だ悔しさに歯噛みしていないのも、彼が同じように釣果を上げていないおかげであった。
 二人が釣りを始めてから既に一刻程経過しただろうか。
 垂らした糸の傍を幾匹もの小魚が泳ぎ行く。その度タカ丸は「あー」とか「えー」とか楽しそうに唸っていたのだが、さすがに飽きたらしく、川水に足を入れ、水遊びをしだした。
 ……そうばしゃばしゃとされては釣れるものも釣れなくなるのだが。

「そういえば、滝夜叉丸は釣りしたことあるの」
「一、二度程度ですが。喜八郎と三木ヱ門と。三木ヱ門の奴が下手な癖に勝負を挑んでくるので大変でしたよ。まあ当然私が勝ちましたが」
「さすがだねえ」

 笑う彼の言葉に少しだけ気分が良くなった。
 一匹対二匹の辛い勝負だったのだが、そこまで口にする必要はないだろう。勝利には違いないのだ。
 何だかんだで五匹もの釣果を上げた喜八郎に「おやまあ、どんぐりの背比べのようだ」と侮辱されていようとも。

「楽しかっただろうね。いいなあ、今度は皆も連れて来よう」
「そんな暇があればの話ですがね、と」

 くいと糸が引っ張られたような気がしたが、その後の反応はまったくない。
 短く息を吐く。タカ丸はまた隣でばしゃばしゃやり始めた。まさかそれで折角の魚が逃げ出したのではなかろうな、と滝夜叉丸は恨めし気な視線を向けてみたが、彼は気付かず一人で楽しんでいる。
 まったくこの人は、と呆れてしまう。とても二歳上とは思えない子どもっぽさだ。好奇心の赴くまま動くのは本人の為に良くない。何より周り、というか己が振り回されてしまうのが気に食わなかった。委員会で振り回されるだけでもこたえているというのに。
 こういう部類ははっきりいって苦手だが……それでも。
 それでも、タカ丸と一緒に居るのはどういうわけだろうなと思う。振り回されるのはごめんだし、苦手だし、突飛な行動をいちいち咎めるのも疲れる。
 今もそうだ。偶には……本当に偶にはであるが、滝夜叉丸も競うのを忘れて気晴らしをしたいと思う時があった。
 折に、タカ丸から釣りの誘いだ。到底競い相手には向かなそうな暢気な笑みを、しかし滝夜叉丸は不安にも感じていたはずだ。それなのに承諾してしまった。疲労するのは知っていたというのに。

「滝夜叉丸、滝夜叉丸ってば」
「え?」
「引いてるよ! 早く上げなきゃ」
「なにいっ!?」

 慌てて釣竿を引き上げるが、時既に遅し。針の先には魚はおろか、餌さえついていない。しまった私としたことが、と滝夜叉丸は茫然とした。あーあ、とタカ丸が声を上げる。

「今のはかなりいい感じの当たりだったのに。残念だったね」
「くっ……! なんたる不覚。考え事さえしていなければ」
「まあ、気長にいけばその内釣れることもあるよ」

 滝夜叉丸の台詞をそのまま返して、タカ丸は気の抜けるような笑みを浮かべた。人の気も知らないで。大体釣れなかったのはあなたのことを考えていたからだ、と八つ当たりでしかないようなことを思ってみた。
 餌を付けて糸を垂らす。遠くで水飛沫が上がった。隣で水遊びにさえ飽きたらしいタカ丸が欠伸をしている。そのままうつらうつらと水面を眺め始めた。
 騒がしいかと思えば、こうだ。穏やかに時が過ぎていく。静寂も嫌いではない。嫌いではないのだが、しっくりこない。
 一体私はこの人にどうして欲しいのだ、と闇雲に思った。むしろどうもして欲しくないのか。
 釣りに誘った本人でありながら早々に放棄し、流れる川の底を見通している彼は、またふわあと欠伸をする。暢気で、勝手だ。だが、突き放すことができない。何故か。所詮闇雲なのだから答えは出ない。

「そろそろ帰ろうか」

 考え事をしている内に随分時が経っていたらしい。結局釣果は上がらず、餌と気力ばかりが奪われてしまった。知らずため息を吐くと、タカ丸が思いがけず優しい調子で肩を叩いた。

「疲れているんだろうから、本調子でないのは仕方がないよ」
「私が、疲れている?」
「違った? 滝夜叉丸、今日は怒鳴らないし、っていうかあんまり喋らないし」
「そのようなことは」

 ないと言いかけて、口をつぐむ。思えば、今日はやたらと物思いに耽る事が多くはなかったか。自覚はなかったが――いくら四年生の中で随一の才を誇る滝夜叉丸といえど人の子には違いないし、多忙な日々に疲れることはあるだろうと一人うんうんと頷いた。
 愚にもつかぬことを延々と思い悩んでいたのも、これで合点がいく。何しろ疲れているのだ。問いだの答えなど、難しく考える必要はなかった。この男に関わらないでいられない訳など一つしかない。
 タカ丸が視界の端で清流へ餌をぶちまけている。蠢く虫たちがくるくると流されていく。
 追うように、小魚の群れも流されていった。

「お腹空いたよ。今晩のおかずは魚だといいなあ」
「いささか気が早いのでないですか」
「帰り着く頃には丁度いいくらいの時間になってるよ」

 急ぐつもりは毛頭ないらしい。いいじゃない、とタカ丸は言う。偶にはのんびりと過ごすことも大事なのだと、心底日和った表情を浮かべた。

「いいですが……帰って夕餉と風呂とを終えたら、明日の予習をしますから、そのつもりでいて下さいよ」
「え、う、うーん、分かった」

 彼には思いも寄らない考えだったらしい。歯切れ悪く渋々と頷くタカ丸に、何故だか一矢報いたような妙な心持で、一寸気分が良くなった。
 タカ丸に関わらないでいられないのは、滝夜叉丸が四年生一優秀な生徒だからだ。学年で一番優秀な生徒が、右も左も分からぬ編入生を世話するのは当然である。
 実際、彼が編入した当初は教師から世話役を言い付かったこともあった。月日も経って、その役が生きているかどうかは怪しいが、ともかく一度世話を焼いたからには、気になる対象であり続ける。
 きっと、そうだ。それ以外に彼を気にする理由など。
 知らず、肩に力が入っていた。ふ、と後ろを歩く彼には分らぬ程度に息を吐き出す。
 今しがた、難しく考えるのは止めようと思ったばかりではないか。やはりタカ丸の見立て通り本格的に疲れているなと滝夜叉丸は額を抑えた。
 夕餉を終え風呂に入り、予習をしたら、ゆっくり休むことにしよう。
 そうすれば明日からはいつも通りの自分に戻れるはずだと信じていた。