風が障子を一寸揺らし、まるでそこに誰か潜んでいるのではないかと錯覚させる。物音が鳴る度、胸の奥が跳ね上がり、それが更なる熱となり体中を駆け巡った。
ふいと灯を吹き消せば、部屋は蕭然さに包まれた。白い寝衣が死者の魂のように浮かび上がり、互いの息遣いだけが闇に生きていた。
十代も終わりを迎えつつある今、この手の事にはいい加減慣れきっている、筈なのに、久々に会うものだから中々飲み込めない、気まずさのようなものが根底にある。艶やかで甘やかな女性を抱いたことを思い出した。あれとは決定的に違う。心構えも、相手に対する感情も、何もかも。
両肩に力が入る。それを忌々しく思うより先に、男の腕が背中にまわされた。鈍い、一時忘れていた痛みが走った。
「新しい傷ができているねぇ」
繊細な動きに反する、緊張感の欠けた言い草にむっとした。年を経てもこの男は基本的な部分でまったく変化していないと思い知らされる。否、わざと傷を弄る彼は大分意地が悪くなった。
「止めてくれませんか。それは最近出来た傷ですので」
言いかけたところを塞がれる。押し付けられたそれは僅かに湿っていて、滝夜叉丸は眉を顰めた。言葉をこのような形で奪われるのは少々不本意である。
「珍しいよねえ。君が弱みを抱えたまま訪ねてくるなんて。」
慰めて欲しいの、と続けて紡いだ。邪気の欠片もないように見える、その顔を思い切り睨む。この闇の中、夜目の利かない彼には、どうせこちらの表情等ろくに分かりはしないだろうが。
「何を馬鹿な。この私がそのような事の為にわざわざ」
「おれのとこに来るわけないって? でもそれだと別の理由が必要になってくるよね」
どこか愉しそうに言い、骨ばった手で髪を梳いてゆく。自慢の黒髪が清流のように流れる様は正直気分が良い。片方の手に帯を解かれると同時に、首筋に唇を寄せられた。
噛み締めた口元は恐ろしく冷たい。その癖吐き出される息は熱く湿っている。それは相手も同様で、首に顔を埋めるタカ丸の息は絡みついて熱い。
「……い」
体を辿っていた指が、背中に寄せられた。ねとり、と硬く繊細な指が直に傷を撫ぜる。愉しんでいるのか――疎んでいるのか分からぬ手つきで、じくじくと、疼くような痛みを引き起こす。
「いた、いって」
「うん、痛そうだよねえ」
「分かっているのならいい加減、」
「やめて欲しい?」
声と共にするりと手が離れる。やめて欲しい、だなんて、訊かれなくても決まっている。痛みには慣れているが好きなわけではない。そこをこの男は履き違えているのではないか。
じくりと痛む。人の話を聞かない指がまた傷の上で蠢き始めた。しつこい行為にいよいよ滝夜叉丸も頭にくる。元々沸点が高いわけではない。力任せに引き剥がし、僅かに持っていた敬いの心を放り出した。
「いい加減にしろと言っている!」
「滝夜叉丸」
ぶつける感情を物ともせずに彼は甘い声で名を呼んだ。上質の砂糖に例えるにはあまりにも俗っぽくて安っぽい、まるで品に欠けた声音を、どうして彼はこの状況で放つのか。不思議でならないが、解き明かしたい事柄かといわれればそうでもない。
元よりこの場で明かせる事など何もなかった。言葉になる問いも、言葉にならぬ問いも、全て泡沫の夜に呑まれてしまう。
だのに眼前の男は、何度も何度も、貪欲なまでに返事を求めてきた。
恐らくは、全てを理解した上で。
「本当の事を言ってよ」
「本当の事も何も」
「ねえ」
執拗に絡みつく。どうして、どうしてこの男は人の話を聞かないのだろう。穏やかな表情で、和やかに、優しく、繕いもせず、それでいて否応無く、相対する人間を追い詰めてゆく。
つう、と指が滑った。酷く緩やかな速度。
「楽になるよ、きっと」
慰めて欲しい。傷跡を辿って欲しい。己はけして望まぬ、けれど彼が求める台詞を頭に思い浮かべては消してゆく。
風が吹き、障子が鳴った。消えた灯は揺らめかない。
一寸先の闇で微笑を浮かべる、彼に何て答えればいい。
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