頻繁だ、と思いながら三之助は千切れた縄を放って、膝を抱えた。
 特別大きな桶の中身をひっくり返したような大雨が降りしきっている。
 急ぎ飛び込んだ洞穴は申し訳程度の深さではあったが、とりあえずの雨凌ぎにはなる。地獄に仏というのはこのことだろうか。ただし冷たい風ばかりはどうしても体を苛み続けてはいたが。
 ぐしゅ、と気の抜けるようなくしゃみは隣で同じように膝を抱えている四郎兵衛のものだ。
 少し濡れた頭巾を解いて、首にかけている。

「止みますかねえ」
「そりゃ、止むだろう。いつかは」

 ぼうっとした声で四郎兵衛は呟いた。洞穴の外を眺めながら三之助は答える。
 委員会活動という名の山登りも、いつの間にか皆がはぐれているのもしょっちゅうだ。縄の端を握っていた四郎兵衛が暴走する三之助(三之助自身に自覚はなかったが)にくっついてくるのも珍しくはないし、山の天気の変わりやすさ故、時にはこうやって雨に降られることもある。
 それらが全て合わさっての事態、というだけの話だ。肌を打つ寒さは気にかかるが、今更焦ったところで仕方あるまい。そのうちどうにかなるだろう。
 一つ下の後輩もそう思っているのか、鼻を啜る音と時折のくしゃみ以外は静かなものだ。
 思っている内に、また一つ。四郎兵衛が鼻を鳴らす。
 頻繁だともう一度思い、三之助はそこではたと気付いて、彼を見つめた。

「お前、もしかして風邪引いてる?」
「へ?」

 開けっ放しの口を更にぱかりと開けて、四郎兵衛が小さく首を傾げた。
 構わず顔を覗くと、常よりも頬が赤い気がした。額に手を当ててみれば、間違いなく三之助のそれより熱いのである。

「言われてみれば、今日はやけに頭がぼんやりするなあ」
「どれだけ鈍いんだ! 同室の奴とか、何も言わなかったのかよ」
「うーん、言われたようなそうでもないような……そういえば、今日はいつにも増してぼんやりしてるなあって」
「気付けよそいつもお前も!」

 という三之助も今まで気づいていなかったのだから、人の事は言えないわけだけれども。
 当の四郎兵衛は「風邪を引くのは何年ぶりだろう」と気楽にぼんやりしているし。
 とにかく寒空の中大雨に降られた上、体調の悪い後輩と二人きり、という異常事態である。濡れる心配はないとはいえ、この風の冷たさに晒される赤い頬は哀れだった。
 少しはマシだろうと三之助は己の上着を脱いで、四郎兵衛の肩へとかけた。彼は大きな丸目を瞬かせて三之助を見上げた。何か言いたそうに口を開閉させる。

「あの、あのう、次屋先輩」
「いいからかけとけ」
「でも先輩が寒いです」
「平気平気、伊達に体育委員なわけじゃあないんだ」
「ぼくも体育委員……」

 言いかけた言葉はくしゃみと共に四散した。
 それから彼はもう何も言わずに、少しだけ三之助の方に寄りかかってきた。多少なりともくっつけば暖かいだろうと考えたのか、それとも単に辛いのか。どちらかは分からないが、三之助は彼の肩を引き寄せることにした。
 こちらの事情など知る由もない雨が相変わらず地面を打ち続けている。
 そういえば少し前、こうして雨に降られたことがあったなあ、と三之助は思い出した。
 迷子になった四郎兵衛を三之助が見つけ出した時だ。(最も、一番最初に迷子になったのは三之助の方なのだが)
 早く先輩たちを見つけなければ、と眉を寄せた三之助に、四郎兵衛はきっと見つかると、ゆったり確信めいていた。
 あの時は彼の言葉通り、すぐに先輩たちと合流することができたのだが、今思えば不思議な出来事であった。

「あの時みたいなこと、今起こらないかな……」

 とは言ったものの、さすがにそうそう都合よくもいかないだろう。
 四郎兵衛はじっと三之助に身を預けていたが、ふっと呟いた。

「どこかで、珍しい事が起こってるんだろうなあ」
「珍しい事?」

 むうと唸る。時々彼は突拍子もない。
 もしかして熱、上がってきてるのかな、と再び四郎兵衛の額に手を当ててみた。先程との違いはよく分からなかったが、頬が益々上気しているようにも感じる。
 さすがに焦りがこみあげて、三之助は立ち上がった。
 助けを呼びに行こう。
 酷い土砂降りだし、彼をここに残して出て行くのは気が引けるが、それでもここで何時止むか知れない雨に焦れているよりはマシな気がした。
 が、一歩目を踏み出そうとしたところ、すかさず袴の裾を掴まれた。
 ぼおっとした顔でぎゅうと裾を握る四郎兵衛に、三之助は再び座り込み言い聞かせるように、

「四郎兵衛、不安な気持ちも分かる。だが、おれは委員長たちを探しに行こうと思う。この雨だって止む気配がないし……それならここでじっとしているよりも捜索に出た方がいいだろう」
「ちっとも良くないです……」

 四郎兵衛は眉を下げ、三之助の顔をじっと見つめたので、弱り果ててしまう。

「あのなあ四郎兵衛、幾ら野生の勘を持つ七松先輩でも、前も見えない土砂降りの中で、その上こんな小さな洞穴の中に居るおれらの事、そう簡単に見つけ出せるとは思えないぞ」
「駄目です」
「四郎兵衛」
「駄目だったら駄目です。先輩、お願いだから……ぼくと一緒にいて下さい」

 ぐずぐずとしきりに鼻を啜りながら、それでも四郎兵衛はけして掴んだ裾を放しはしなかった。丸くて大きな目は熱のせいか、少し潤んでいる。三之助は弱り切って、結局そのまま腰を落ち着けた。

「分かった、分かったよ。そうだよな、熱出して不安になってるお前を放り出そうとするなんて、軽率だった」

 風邪引きがこんな淋しい場所に一人残されたなら心細いことこの上ないだろう。
 良い考えのように思えたのだが、本当に後輩のことを考えるなら、彼の望むように傍に居てやることが最善なのかもしれない。
 ちょっと違うんだけれどなあ、と四郎兵衛が小さく呟いたような気がしたが、きっと素直に認めるのが恥ずかしいのだろうと三之助は思った。己だって同じような思いを他人に見透かされるのは少々きまりが悪い。
 膝を抱えなおす。四郎兵衛はやっと裾を放して、今度は遠慮なく三之助へもたれかかってきた。
 何時までそうしていたのだろう。いつしか四郎兵衛はうとうとし始めていて、三之助の方も瞼の強度が怪しくなり始めた頃だった。

「なんだなんだ、こんなところで眠っていたのか!」

 雨音を打ち消すような大声が降ってきたので慌てて瞼を擦る。小さな洞穴の入り口を塞いで佇んでいるのは、紛れもなく七松体育委員長であった。
 彼は全身ずぶ濡れの風体だったが、まるきりいつもの調子で、二人の腕を取り立ち上がらせた。
 その後ろから、こちらもすっかり濡鼠の滝夜叉丸が顔を覗かせた。不機嫌な様子で腕を組んでいる。

「まったく、呑気に居眠りなんぞしおって。お前らを探すのにどれだけ苦労したか……毎度毎度、面倒事を起こさないで貰いたいな」

 険のある声に腰を浮かせたが、言い返すことができない。
 小平太が二人を宥めすかすよう豪快に笑った。

「滝夜叉丸は随分気を揉んでいたからなあ。まあ、見つかって良かった。この雨ではいつ土砂崩れが起こるかもしれん。金吾は先に帰らせてあるから、我々もさっさと下山するぞ」
「あ、あの、先輩。四郎兵衛、熱があるようなんです」

 焦り言い募れば、小平太は少し眉を上げ、さっと四郎兵衛を抱きかかえた。額を合わせ、微かに渋い顔をする。

「本当だ。熱があるな……と、なれば一刻も急がねば。滝夜叉丸、上着を脱げ!」
「え? ああ、はい」

 指示をしながら小平太も上着を脱いだ。滝夜叉丸の上着と合わせて、抱き上げた四郎兵衛に被せる。もちろん、先に肩にかけさせていた三之助の上着もだ。色とりどりの装束に包まれた四郎兵衛は、その隙間から丸い目を瞬かせている。

「では行こう。滝夜叉丸、新しい縄で三之助の腹を括れ。三之助は滝夜叉丸から離れるんじゃないぞ」

 言い放った途端、小平太は雨の中を飛び出した。視界も足元も悪い中、四郎兵衛を両手で抱えながら器用に木々の間を縫って走っていく。野生の獣も真っ青の素早さを目の当たりにして、大雨だとか何だとか、先導する彼にはちっとも心配するような事ではなかったのだと呆然とした面持ちになる。

「さすが、体育委員長ですね……」
「感心してる場合か! 我々も急ぐぞ!」

 僅かな畏怖と安堵感に浸っている間に、腹をしっかりと縄で括られた。滝夜叉丸に引っ張られるように遥か前方の背を追う。
 激しい雨に身を震わせながらも進んでいると、前を走る滝夜叉丸の声が切れ切れに耳に入ってきた。

「しかし、四郎兵衛が風邪引きか。恐らくそれが理由だろうな」
「え? 何ですかあ!」
「お約束ってことだ」

 振り向きもせずに答える滝夜叉丸の声は雨に掻き消されて聞こえない。
 無事に下山できたら改めて聞き直そうと思って、三之助は山道を急いだ。