足を踏み出す度に傷んだ廊下がきしきしと鳴る。立花仙蔵は五年長屋を悠々と歩きながら、辺りを憚らぬ声で名を呼んでいた。声はしばらく続いたが、その名の持ち主が部屋から顔を出すとやっと止んだ。

「何でしょう、立花先輩」
「火薬庫に用があってね。お前鍵持っているだろう、貸してくれないか」
「鍵なら生憎別の生徒に貸してしまって」

 申し訳なさそうに頭を掻く兵助を一瞥して、そりゃ残念だと仙蔵は肩を竦めた。

「ところで誰に貸したんだい」
「鉢屋です。あいつも火薬庫に用があったみたいですよ」
「本当に?」
「先輩に嘘言って何になるっていうんです」
「そうかそうか、じゃあお前を信じる事にするよ。これでわざわざ本物を探す必要もなくなった。鍵出せ、鉢屋」
「あ、やっぱり気付いてましたか」

 おどけたように言って剥ぎ取った面の下から穏やかな風貌の男の顔が現れる。
 借り物の下の借り物の顔、その下も恐らく借り物なのだろう。何処までいけば真実があるのか。三郎は髷を付け替えながら緩やかに口元を吊り上げた。

「どこで気付きました」
「最初からだ。纏う雰囲気が全然違った。というかお前、隠す気なかったろう」
「半々ですね。先輩と兵助じゃああんまり関わりも無さそうだから、上手くいけばと思ったんですけれど」
「特別親しいというわけでもないが、まったく関わりがないわけでもないな。こうやって鍵を借りに行く時もある」

 今日は外れだったみたいだが、と続ける仙蔵に、三郎は苦笑いを浮かべた。

「外れだなんて、酷いですね。後輩に向かって」
「可愛げのない後輩に優しくしてやる義理はない」
「可愛げのある鉢屋三郎なんてぞっとしませんか」
「自分で言うのか。ま、確かに気味が悪いな」
「優しい立花先輩とどちらが気味悪いでしょうね」
「お前も相当酷い奴だぞ。本当に可愛げがない」
「どうも」

 知らない人間が聞いたら仲が悪いと誤解しそうな会話だが、仙蔵も三郎も相手を嫌っているわけではない。仙蔵にとって軽口とは日常茶飯事のものであるし、三郎もまたそうだ。そのような二人が顔を合わせれば必然的に性質の悪い応酬が始まるが、本人達は至って平然としていて、むしろ楽しんでいるような風情さえ漂わせるのである。

「さて、そろそろ火薬庫の鍵を出して貰おうか」
「それには及びませんよ先輩」
「何?」
「わたしも火薬庫に用があるって言ったでしょう」
「ならば尚の事、鍵を渡してもらわねばならんな」
「どうしてです。一緒に行けば良いじゃないですか」
「お前と仲良く火薬庫にこもる趣味はないのでね」
「じゃあ先に鍵を貰ったわたしが優先ですね。先輩はしばらくお待ちください」
「慇懃無礼という言葉を知っているか?」
「もちろん存じておりますよ。それがどうかなさいました」

 火花を散らしそうな勢いだが、二人の表情は恐ろしく冷然としている。
 だがやはりこれも軽口の延長線上であり、真に一触即発の雰囲気ではない、と思うことは到底できず、離れた所で様子を見ていた本物の久々知兵助は重苦しいため息を吐いた。そして、先輩と対峙する同級生に少しばかり感心した。三郎ときたらよくもまあ、あることないこと言えるものだ。
 ばれたら一体どうするつもりだろうと思いながら、手の中の鍵を顧問に返すべく、冷ややかなやり取りを繰り返す二人に背を向けた。