とぷり、と雷蔵がお猪口に酒を注ぐ。たちまち部屋の中にあまり馴染みのない匂いが充満した。独特の匂いのそれがしかし、これ以上ない程魅力に満ちているのだと三郎は思う。 酒は三郎が、お猪口は雷蔵がどこからか用意したものだった。得意の変装で適当な大人に変装すれば、酒を買うのは至極簡単なことである。 雷蔵がどうやってお猪口を手に入れたのかは三郎は知らないが、恐らく六年か同級生あたりが隠しているのをくすねてきたのであろう。柔らかい笑顔を浮かべながらお猪口を差し出す雷蔵に、三郎は自分を棚に挙げて、ようやるよと感心した。 「忍者の三禁破ってしまったな」 なみなみと注がれた透明な液体を、二人して少々持て余し気味に見つめる。踏ん切りがつかないのだ。三郎が様子を伺うように隣を見つめると、雷蔵と視線がかち合った。そうしてお互い苦笑する。 「いっせいの、で飲もうか」 雷蔵の提案に、三郎はお猪口の中身を溢さないよう小さく頷く。 いっせいの、と少々緊張した声で調子を合わせ、一気にごくりと飲み干した。口の中いっぱいに満ちた未知の液体が全て喉に流れていくのを感じると、三郎は思わず息を漏らす。初めての酒は不味いものではなく、寧ろ美味と言っても良いものであった。 前に酒を飲んだという同級生が、飲んだ途端頭が溶けるかというくらい熱くなったと言っていたが、自分の頭はちっとも熱くならないので多分酒に強い方なのだろう。ことりとお猪口を床に置き、三郎は余裕の笑みで雷蔵の方へと顔を向けた。 雷蔵は飲み干した後のお猪口を手に持ったままぼんやりと床に視線を向けていた。心なしか頬が赤く火照っている。どうやら雷蔵は三郎と正反対のようで、酒には弱いようであった。 幸いなことに意識はあるみたいで、三郎が顔の前で手を振るとぼんやりと目をやってくれた。 「酔ったか?」 匂いは平気なんだけどなぁとごにょごにょ呟きながら、雷蔵はぐったりと床に倒れ付した。仕方が無いので三郎は立ち上がり、押入れから二組布団を持ってくる。 酒瓶と二つのお猪口、それに倒れている雷蔵の両脇を抱えて、ずるずる引きずりながら部屋の隅に寄せた。それから二組分、きっちりと布団を敷く。 部屋の隅の壁に背を預ける雷蔵をまた容赦なく引きずって布団へ寝かせた。お猪口と酒瓶も忘れずに指に挟んで持ってくる。 「んー……吐きそ」 平常より少々荒い息ではあるものの、まだ軽口を叩き合える位の余裕はあるらしい。三郎は安心しながら、自分のお猪口に酒を注いだ。たちまち小さいお猪口がいっぱいになる。 今度は先ほどのような躊躇いはなく、三郎は酒に口をつけた。雷蔵が寝たまま僅かに情けない笑い声を立てる。 「よく飲めるね。酔わないの」 掠れたような声で雷蔵が相槌を打った。酔っているのかそれとも眠たいのか、とろんとした目つきで酒を飲み干す三郎を眺めている。その口からはふ、と熱い戸息が漏れるのを耳に入れながら、三郎は自分が少々妙な気分になるのを感じた。 「どうした三郎」 頭を振って三郎は友に微笑を向けた。咄嗟の作り笑いだったが、酔っている雷蔵にはきっと分からなかったに違いあるまい。それは実際その通りで、雷蔵はそうかと言ったきり黙りこくった。 しんとした部屋で、三郎は自分の感情を打ち消すかのようにゆらゆらと酒瓶を揺らした。軽くなったそれはもう一人分の酒しか入っていない。 さてどうしようか、と思った。もう一杯飲み干してしまおうか。いや、しかし。 ちら、と沈黙している雷蔵を横目で見た。赤い頬と眠たそうな瞼が常の彼からは考えられないほどの情緒を醸しだしている。時折、気だるそうに長い息を吐き――実際はそんなに色気ある景色ではないのだろうが、今の三郎にはそれが何とも心動かすものに見えてしょうがないのだった。 (これは、酔ったかな) 雷蔵のように顕著には出なかったが、やはり自分も酒に耐性のある方ではなかったのかもしれない。 長年の親友にこんな訳の分からない想いを抱くのが証拠だ。これ以上飲んだら本当に襲ってしまいかねない……などとあまりぞっとしないことを考え、三郎は一人身を震わせた。 「うーん」 人の気も知らないで(知られても困るが)、当の雷蔵は何やら布団の上でうんうん唸っている。三郎は彼に気取られぬよう、短い溜息を吐いた。 (やはりこれ以上飲むのはよそう) 理性が残っている内に止めたほうがいい。酒瓶は明日にでも処分すればいいだろう。そう思い立ち、三郎はお猪口と酒瓶を押入れの中に隠した。 部屋を照らしていた灯りを吹き消して、三郎は余計なことは一切考えぬようにと布団の中へ入った。ほんわりとした温かさが身を包んで、僅かな音を遮断する。 そうして三郎は静かに眠りにつく――筈だったのだが。 「う……三郎」 布団を軽く蹴られた。何事かと布団に埋めた顔を出すと、月明かりの中雷蔵がぐったりとした表情で口を抑えていた。 「厠」 くぐもった声で簡潔過ぎるほど簡潔に言い放つ。しかし言いたいことはよく分かったので、三郎は急いで身を起こし雷蔵の肩を担いだ。 「君、幾ら何でも酒に弱すぎないか……?」「……」 雷蔵が何か言いたそうに三郎を見てきたが、結局口を抑え黙りこくったままだった。喋っている余裕がないようで、ただぐったりと三郎の肩に体をもたれかける。 これ以上話しかけて時間を潰せば本当に部屋に嘔吐しかねないので、三郎は余計なことは言わずに戸を開けた。 ひやりとした夜風が身を冷やす。そのあまりの冷たさに震える暇もなく、雷蔵を連れて一刻も早くと厠への道を急いだ。 先ほど友に抱いた感情はとっくに脳裏から吹き飛んでいた。
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