近頃何かと七松先輩が作法室を訪れる。大抵は土に塗れた格好で、委員会のついでみたいに戸を開け、ひょこりと顔だけを覗かせる。今日も例外ではなく、何の前触れもなく顔を出した七松先輩が立花先輩に呼びかけた。
 先輩は丁度首フィギュアに着色しているところで、突然の訪問者相手に顔も向けない。

「大した用事じゃないならさっさと帰れ。今忙しい」
「腹が減ってさ。ここ通りかかったらいい匂いがしたもんだから」
「どんな嗅覚だ。犬かお前は」

 首と筆を置いて、先輩が顔をあげる。
 どこから取り出したのか、いきなり出現した幾つもの饅頭を部屋に入ってきた七松先輩に放り投げる。一つ残らず受け止め、饅頭を抱えた七松先輩は、満足げに戸の外へと消えていった。

「先輩」
「何だい、不満げに」

 再び首と筆を手に取り、作業に取り掛かった先輩の視線は微動だにしない。だから不満げといったのは表情ではなく声のことだ。そんなに不満げだっただろうか。思い返してみるが自分ではよく分からない。

「最近よく来られますね」
「奴が気に入らないかい」
「気に入るとかそういうことではなく」
「そういうことではなく?」

 これでは駄々をこねる幼子だ。先輩の声は酷く淡々としていて、だからこそ余計にそう感じるのかもしれない。
 筆の滑る音が途切れた。先輩が一寸笑っている。お前という人間が時々分からなくなる、と先輩に言われた事があるが、私こそ先輩の事が分からない。

「そうだなあ」

 先輩はまだ少し笑っていた。

「あいつはあの通りの奴だからなあ。やめろと言っているんだが」
「立花先輩」

 会話が微妙にずれてやしないか。いや、意図してずらされたのかもしれない。目を細めて笑っている先輩の心情を見透かせない。見透かせたことなんて今まで一度もなかった。いつもこちらばかり先輩に見透かされているようで、少し悔しいと思う。
 私は部屋中に数多転がる、首フィギュアの一つを手に取った。端整な、まるで感情の通ったような表情がこちらを睨みつける。先輩が作ったものだと容易に分かった。私はまだこんな表情を形作ることができない。
 ずっと眺めていると、先輩がぽんと首を投げてきた。着色が終わったそれもやはり随分精巧な出来だった。

「さて、仕事も終わったことだし。下級生達が来たらお八つにしよう」

 そう言って饅頭を出す。相変わらずどこから出したのか謎だけれど、そういうことを気にしていたらきりがない。
 饅頭の匂いと墨の匂いが混じり合って部屋を満たした。先輩はとりとめもなく、肩にかかった髪を払い落としたり欠伸をしたりしている。薄ぼんやりとした室内は酷く静かで、下級生たちが来る気配もない。
 両手に抱えたものを、そっと床に置く。
 衝動だった。
 何が弾みになったのか自分でも分からないのだけれど、唐突に先輩の顔に触れてみたいと思った。
 その先は考えていない。触れて、触れて――とにかく指を、伝わせてみたい。
 床上に転がる恐ろしく精巧な首たちを押しのけ手を伸ばす、伸ばそうとして、止まる。
 先輩は呆れた顔で、たった今開かれた戸の前に立つ人物に視線を送っていた。

「いい匂いが、なんて言うんじゃないだろうな」
「違う違う、貰ってばっかじゃ悪いだろ。体育委員からの差し入れだ」

 七松先輩が差し出したのはお茶の葉だった。立花先輩がそれを眺めて、軽く息を吐く。

「お前まさか一緒にお茶する気ではないだろうな」
「さすが仙蔵。話が早い」
「魂胆が見え見えなんだよ。……まあ、差し入れは有難く頂戴するが」
「それじゃあ邪魔するぞ。お前らも入れ入れ」
「誰が入っていいと言った」

 と言ってはいるものの追い出そうともしない。それを良しとした七松先輩がずかずかと踏み込み、続いてぐったりとした体育委員が何人も侵入してくる。
 菓子と墨の香りは四散して、狭い部屋があっという間に騒がしくなった。後から来る後輩達に饅頭は回るのだろうかとぼんやり思った。
 あらかた土を払ってなおぼろぼろに汚れた滝夜叉丸が、数多の首フィギュアを押しのけて私の横に座り込んだ。美味そうな茶の葉だろう何しろ私が選んだものだからなぐだぐだぐだ、と大仰な仕草で勝手に喋りかけてくる。私はそうかもねとか多分そういう相槌を打って立ち上がった。
 どこへ行く、と先輩が私を見上げた。

「足りない分の湯呑みを借りてきます。それとお湯も」
「良いのか?」

 立花先輩は意外そうに瞬きしたが、すぐにいつもの表情に戻ってじゃあ頼むと声をかけてくれた。私はそれに頷き、先輩達に背を向けて、作法室を後にする。
 さっきまで先輩と二人きりだったのが嘘みたいだ。どっと人の増えた作法室はこうして戸を閉めても騒がしい。
 今更どうしようもない衝動を持て余し、行き場のない指を宙に迷わせる。ふと、このまま何処かへ行ってしまおうかと思った。でも、何処へ。何処へ行けばいい。
 何処へ行けばこの衝動は、