きり乱

 バイトから帰ってくるなり暑いと言って倒れる。髪から、顔から、腕から。流れ落ちる汗が床に浅い水溜りを作った。見かねた乱太郎が、呆れながら手拭いを投げた。
 顔に落ちたそれをそのままにしてしばらく寝そべっていたが、やがて起き上がると、だるいといわんばかりの手つきで汗を拭った。一通り拭ってしまうと乱太郎に投げ返す。
 汗をたっぷり吸った手拭いを受け取った乱太郎は眉をひそめた。

「洗って返せよ」
「乾かせば大丈夫だって」
「何が大丈夫なんだよ」
「それにしても暑いな。もう夕方だってのに」
「話を逸らすなよなあ」

 とため息を吐く乱太郎の額にも汗が浮いている。
 部屋の中でさえそうなのだから、授業が終わって今までずっと炎天下で売り子をやっていた彼がへばるのは仕方ない、と思うもののそれとこれとは話が別である。
 乱太郎は手拭いをきり丸に突き出した。しかし受け取ろうとしない。どころかまた床に転がって寝たふりまでする。
 いっそ顔に投げつけてやろうかと思ったが、不規則な寝息が聞こえてきたので諦めた。こんな時ばかり寝つきがいい。
 まったく勝手なんだからきりちゃんは、とぶつぶつ呟いて濡れた手拭いを持って立ち上がった。浮き出ていた汗が眉間を滑ってゆく。それを腕で拭いながら、どうにも納得がいかないよなあと思った。



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タカ滝


 寒いと彼が言う。
 それはまったく同感だ。がしかし、頂けない事がある。
 絶え間なく吹く風を正面に受けながら、滝夜叉丸は眉間に皺を寄せ振り返った。

「どうかした?」
「じゃ、ありませんよ」

 猫背気味な背中を更に丸め、俯き加減で両手に息を吐きかけていたタカ丸が顔を上げる。
 鼻頭は赤く、息は凍てつくように白い。
 寒さにはこと弱いのだと以前言っていた。では暑さには強いのか、と問うとそれも駄目との事なので、単に堪え性がないのだという判断を下している。
 びゅうと一段強い風が吹いて、肌が切り取られるように痛んだ。タカ丸はもうほとんど団子のように背を曲げて、風が過ぎるのを待っている。

「一体どうしたの、早く行こうよ」
「タカ丸さん、私を風除けにしてますよね」

 頬に張り付く黒髪をそのままに、視線を投げつけ睨む。タカ丸は一回瞬きをして、あバレた? と悪びれた風もなく笑った。

「寒いんだもん」
「寒いんだもんって……私だってそうですよ」

 吐いた息は四方に消えた。ようやく風が落ち着き、好き勝手乱した黒髪だけを残していった。タカ丸が緩やかな笑顔のまま手を伸ばした。幾筋かかったままの髪を払いのけるように頬を撫でる。

「あ、本当だ。冷たい」
「……当たり前でしょう」

 触れなければ分からんのかこの男は。うんざり思いながら、頬に集まりつつある熱に焦らなければならなかった。何時までこうしているつもりなのだ。早く行こうと言ったのはこの人じゃないか。

「行きますよ」
「え、あ、うん」

 痺れを切らして背を向けると、タカ丸は頓狂な声を上げた。
 今度は後ろから着いてくるのではなく横並びに歩いた。タカ丸は相変わらず体を折り曲げ、組んだ両手に気休めの温かさを吐きつけている。
 またもや風が吹いて髪が乱れた。丸まった背は更に丸くなるだろう。全身を打ち据える冷気の塊を腕を上げ凌ぐようにした。熱を帯びかけていた頬は最早冷たい。