小仙


 蒸されるような暑い日に外へ出たくは無い。けれども部屋の中だって外と大差なくて、いやむしろ外よりも暑いくらいだ。それなのに彼はごろごろと部屋の中を転がって、決して外に出ようとはしない。

「あっちいなあー」
「それなら外へ出ればよいだろうに、ここより幾分かはマシだぞ、きっと」
「でも今日はなあ。何かそんな気分じゃないんだよ」
「いつものいけいけどんどんはどうした」
「あー」

 仙蔵の部屋で寝転びながら胸元を扇いでいる小平太は、遂には人間の言葉を放棄し唸り始めた。鬱陶しいというのも馬鹿馬鹿しくて、仙蔵は文机に向かいなおした。読みかけの書物に目を通す。
 ああ、それにしても今日は暑い。暑すぎる。自分達は蒸し料理ではないのだと叫び出したくなる。
 肩にかかる髪の毛や、自らの吐く息すらうざったらしい。これでは読書する気にもならない。
 仙蔵は読書を諦めて、小平太のように寝転がった。寝転がってから気づいたが、床は思ったよりも温度が低くて心地よい。それもずっと体を預けていれば温まってまた暑さがぶり返してくるけれど。

「暑いなあ」

 懲りずに小平太が呟く。よく見れば彼の顔や腕には幾つもの汗が浮かんでいた。仙蔵自身もまた然りだが。

「なあ」
「うん」
「部屋を出ないのか」
「だからそういう気分じゃないんだって」

 小平太はうんざりしたように大の字に手足を投げ出した。汗が幾筋も流れ出て、床を濡らす。
 ここは一応私の部屋だぞ、そんなに汗を流したいんだったら自分の部屋に戻れ……と言おうとして結局口をつぐむ。無駄な労力は使うべきではない。
 しばらく、二人でごろごろ。
 うつ伏せになったり胸元を扇いだり顔にかかる髪を払ったりしていると、小平太が似合わない気だるげな瞳を向けてきた。

「なあ仙蔵」
「何だ」
「部屋を出るか」
「……お前さっきそういう気分じゃないとか言ってなかったか?」
「仙蔵と一緒なら出てもいい」

 ああ、何だって暑いときに限ってわざわざ暑苦しい言葉を吐くかなお前は。
 というかそれが言いたくて、今まで暑い暑いと主張していたのかもしかして。
 あまりの暑苦しさに体温が上がりそうで、仙蔵は手で顔やら首やらに風を送った。
 暑苦しい、暑苦しいが――提案自体は飲んでやらなくもない。

「どんな処だってここよりはマシだろう……ってさっきも言ったか」
「だから出よう」

 小平太は途端に飛び起きた。お前さっきのは演技だったかと問い詰めたくなるほどの変わりぶりに呆れ果てる。仙蔵も身を起こし、扇ぎすぎて乱れた胸元を適当に正した。開けっ放しの障子の前で小平太が待っている。

「行くぞ仙蔵」
「分かってる」



 さて、目指すは此処よりも涼しい処。




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三年生


 ありえない、と藤内は顔を青くして返ってきたばかりの答案用紙を見直した。何度確認しても点数が変わるなんて奇跡は起こりえず、彼はがっくりと肩を落とした。
 悪夢だ、こんなの。
 今回の試験は自分でもまあまあできたと思っていたところだ。それなのになんだこの低い点数は。悪夢だ、悪夢以外の何だというんだ!

「残念ながら夢じゃあないぞ」
「そうだよなあ」

 昼食の後も沈んでいた藤内は、声をかけてきた三之助に洗いざらい話して、その結果長い廊下に響きわたるほどの声で笑われた。
 無言で睨むと三之助は「だって笑うしかないじゃないか」と口を抑える。

「答えはほぼ完璧に書けていた。それなのに返ってきたのは顔を覆いたくなるほどの低い点。何かの間違いじゃあないかとよくよく見返してみれば、途中から答えが一つずつずれてたって。これで笑わずにどこで笑えと」
「ううっ、お前に分かるか。哀れみの目で数馬に肩を優しく叩かれたときの惨めさといったら! 『藤内、保健委員会にようこそ』とでも言いたげな視線!」
「お、お前おれを笑い死にさせる気かっ」

 歩きながら、腹を押さえて笑う……というより半ば呻いているといっていい三之助に、藤内はぐったりと力を抜いた。試験前の努力が、走馬灯のように押し寄せてくる。それも全て遠い記憶とたそがれていると、不意に角から出てきた誰かと肩がぶつかった。あまりにも思い切りぶつかったものだから、藤内はよろめいてしまった。

「痛っ……」
「それはこちらの台詞だ藤内。どこを見ているんだ」
「な、何言ってるんだよ、そっちが突然出て……って、孫兵か」

 目の前には見知った同級生の姿。孫兵は少しむっとした表情で、自らの肩をさすっている。何だかいつになく機嫌が悪そうだった。

「お前、今から昼食か」

 三之助が尋ねると、孫兵はやはり不機嫌そうに頷く。藤内は三之助と目を見合わせた。
 それきり口を開かない二人に、孫兵は苛々とした視線をやって、

「用がないならわたしは行くぞ。腹が減っているんだ」
「あ、ちょっと待て孫兵。どうしてそんなに苛々してるんだ」
「苛々?」

 いっそ剣呑といっても差し支えのない瞳を向けられて、藤内は身がすくんだ。捕食者の前に投げ出された兎になった気分だ。しかし三之助は果敢にも踏み込んでいった。

「お前の飼ってる毒虫関係か? ……それとも藤内と同じように試験が悪かったとか」

 ずるり、と藤内はずっこけた。何も知らない相手に余計な情報を与えないでほしい。しかもよりにもよって今一番気にしていることを。
 それに、彼が特別に心動かされることといったら大抵は毒虫関係に決まっている。他に何があるっていうんだ……と、孫兵の表情を伺うと、彼は図星をつかれたような顔で固まっていた。

「ぐっ……確かに今回の試験は少しばかり出来が悪かった」

 うそぉ、と叫び出しそうになるのを必死でこらえた。言い当てた本人である三之助もぽかんと口を開けたまま固まっている。
 沈黙がおりかけた瞬間、孫兵がやけくそのように叫び出した。

「しかし、あの子たちに対する愛に偽りなどない!」

 意味不明な言葉を乱暴に放って、孫兵は腕で目を拭いながら食堂へ駆け出していった。あれ、あいつもしかしなくても泣いてた? と思い至ったのはそれから少し経った後だった。

「……そういや今回の試験、虫獣遁の問題もあったっけなあ」

 しばらくした後、三之助がぼそりと呟いた。藤内も思い出そうとしたが、試験内容はいつの間にやら記憶の彼方だ。あまりの衝撃で忘れてしまったのだろう。

「でもあの孫兵が虫獣遁の問題を間違うと思うか?」
「世の中何が起きるか分かんないからなあ。書き違えたとか書き忘れたとか……ああ、お前と同じ理由かもしれないぞ」
「んな馬鹿な……」

 呟いた直後、孫兵の悔しそうな涙を思い出し、三之助の言うこともあながち間違ってはいないかもしれないと思い直した。