いつの間に眠っていたのだろうか。はっと目が覚めて窓越しに外を見ると、まったく覚えのない風景が走っていた。
 どこだここは。
 焦るのと同時にアナウンスが流れた。『次は終点ー、終点です』高い女性の声が酷く暢気に聞こえる。目的地を寝過ごしてしまったのは明白で、らしくない失態に小さく肩を落とした。
 当たり前だが後戻りはできない。随分かさんでしまった料金分を財布から取り出し、見知らぬ風景に足を踏み入れた。二十時三十五分、おまけに市街地から随分離れている。次のバスは……あまり期待しない方がいいかもしれない。

「どーやって帰ればいいんだ」

 まず道が分からない。仮に分かったとしても何時間かかるのか見等もつかない。かといって一泊するような施設も金もないのだ。とりあえず広い通りに出るまで歩いてみようか。

「あのー」

 後ろから声をかけられた。間延びするような声に聞き覚えがある。
 振り返ると暗闇の中、いつかの金髪男が立っていた。

「この間の人だよね。覚えてる?」
「覚えてますけれど」

 覚えているもなにも、あの出来事は記憶に新しい。彼が何故ここにいるのだろう。
 男は気の抜けそうな笑みを浮かべた。

「一緒のバスだったんだねえ。降りるときに気づいたんだけど」
「はあ、そうでしたか」
「もしかしてバス乗り過ごしたんじゃない? 困ってるみたいだったから」
「別にそんなことは」
「それならさあ」
「……は?」

 果たして男は奇妙な提案をしてきた。



 
 袖振り合うも他生の縁と言うが、いくら何でも気安すぎやしないだろうか。名前も年齢も分からない、ろくに喋ったこともない人間を部屋に招き入れるだなんて。
 と思いつつも結局言葉に甘えて、アパートの一室、テーブルの前に腰を下ろしてしまっている。物の少ない四畳半と、冷蔵庫を開ける音。妙な提案ではあったが目の前に広がる光景は普遍的にさえ思えた。

「ビールとオレンジジュース、どっちがいい?」
「いえ、お構いなく」
「じゃあビールにする?」
「いえ、だからお構いなくと。それに私一応未成年ですし」
「えっ、嘘、何歳? もしかして高校生とか」
「大学生です。十九歳」
「へええーそうなんだ、じゃあオレンジジュースにするね」
「いやあのだから……」

 基本的に人の話を聞かないらしい。さすがに辟易したが、それにしてもとぽとぽとオレンジジュースを注ぎ始める男の姿は暢気である。まあ、折角淹れてくれるというのだから無理に断る理由もない。もう何も言わず大人しく座っていると、はいどうぞ、と鮮やかなオレンジ色が注がれたコップを渡された。もう一方のコップも同じ色。

「ビールは飲まないんですか」
「ん、俺はアルコールあんまり強くないから。そんなには飲まないんだ。友達が結構飲むから、それで一応置いてるんだよねー」
「そうなんですか」

 適当に相槌を返して、滝はコップに手をかけた。男はちびちびと舐めるようにジュースを飲んでいる。
 そういえば、まだ名前を訊いていない。
 会ったこともない友人の情報などより、そちらの方がよっぽど有益だ。今の状況がもう既に非常識なのに、この上名前も知らない人間の家に一晩だなんて、非常識の上塗りじゃないか。

「あの、今更ですが名前を伺っても」
「ああ、そういえば名乗ってなかったねえ」

 思い出したという風に男が言った。

「俺は斉藤タカ丸。タカはカタカナで、丸は漢字ね。今年で二十二だけどまだ二十一。美容師の見習いしてる」

 そこまで言ってジュースに口をつける。言っている通りだとすると、彼――タカ丸は社会人いうことだが、まったくそういう感じがしないのは纏う雰囲気の所為か。何となくゆるゆるした。

「で、君は」
「平滝夜叉丸です」
「へええ、変わった名前だね。なんか古風な感じ」

 どう書くの? と問われて一文字ずつ説明する。説明し終わると気の抜けたビールのように笑った。

「じゃあ滝夜叉丸」
 
 早速呼び捨て。

「あ、でもちょっと長いなあ。滝って呼ぶね」

 しかも略された。

「で、滝。晩飯のことだけど」
「いやそこまでお世話になるわけには」
「そうじゃなくって、あのさあー、滝は料理とか得意?」
「へ、はあ、得意ですけど」
「なら良かった。俺料理苦手でさあ、盛り付けなら自信あるんだけどね」

 どうも話が変だ。タカ丸は期待するような面持ちでこちらを見つめている。知り合ったばかりの、ほとんど縁のない人間に晩飯を作らせようとするなんてどういう性格をしているんだろうか、この人は。
 ……しかし滝は元来人の期待を裏切ることができない性質だった。気がつくと台所に立って包丁を握っていた。こうなるともう後戻りはできない。ありあわせのもので簡単に二品ほどこしらえる。米と味噌がなかったので、おかずだけの晩御飯になってしまったが。

「手料理って久しぶりだなあ。いつもはカップラーメンや弁当とかで済ませちゃうから」

 偉く感動したような口調。頂きますと嬉しそうに箸を付ける。何だかなあというような心持で滝も食事を口に運ぶ。よく知りもしない他人の部屋に腰を落ち着け、向かいながら食事をするこの違和感。

「あのさあ、滝」

 もそもそと食べていたタカ丸が不意に口を開けた。どうでもいいが物を口に含みながら喋らないで欲しい。

「これも何かの縁だよね」
「はあ?」
「ご飯美味いし」
「そりゃまあ当然……」
「また作りにきてよ」
「はあ……ってはあ?」
「たまにでいいから」

 緩やかに、まるで気の抜けた顔をしながら、何という方向に話を飛ばすんだろう。おまけに譲歩したような振りをしながら有無を言わさないような台詞。天然、なのだろうか。意図して言っていたら恐ろしい。
 タカ丸は箸を握ったままこちらを見つめている。少々戸惑いながら、滝は箸を置いた。

「さすがにそれは」
「週一、忙しいなら月一でいいよ」
「そういうことではなくて、会ったばかりの他人をそこまで信用するのはどうかと」
「でも滝は俺のこと信用してるんでしょ」

 だからここに居る、とタカ丸は言った。
 半分ほどに減った、向かいのオレンジが静かに波打つ。

「俺も滝のこと信用してるよ」

 その言葉がどれだけ珍妙で無用心なものか、彼は理解していないのかもしれない。だからこそ当然のように、まるで数年来の親友に言い放つように、のんびりと、それでいて真摯な瞳で言い放つ。世間の常識や非常識を裁量で選んでいるような、そんなマイペースさをこの男は持っていた。
 こういう奴は苦手だ。知れば知るほど思う。拍車がかかる。関われば関わるほど相手に飲み込まれてゆくような気がする。

「……週一」
「え?」
「週一で良いのなら」
「いいの! うわあーありがとー。じゃあ連絡先とか教えとくよ。携帯持ってる?」
「食べ終わってからでいいですか」
「いいよー。でも週に一回は美味いものが食えるのかあ、楽しみだなー」

 それでも期待は裏切る事ができない。どのような人間が相手でも。