何が起こったのか分からなかった。悲鳴と、足音と、ブレーキ音が一斉に襲ってくる。からからから、とどこかで乾いた音がした。
自転車だ、と妙に冷えてゆく頭の端っこで僕は思った。タイヤが回る音。やがてそれも小さくなって消えてゆく。
僕は死ぬのだ。
自転車に乗って横断歩道を渡っていた僕は、信号無視のトラックに轢かれた。体が吹っ飛んだ気がする。生きている間も決して整っているとはいえなかった僕の顔はどうなっているんだろう。僕は死ぬ間際らしかったから、残念なことに自分の顔を見ることができない。
潰れて益々酷いことになっているんだとしたら死んでも死にきれない。
せめて野次馬達よ、吐いてくれるな。
僕を轢いたトラックの運転手はどうしたんだろう。僕の周りに集まっている人間達の喧騒は聞こえてくるのに、姿は見えない。視界が暗い。いや、明るい。あるいは無色。分からない。
とにかく僕が気になっているのは、これからどうなるのだろうという不安ではなく、運転手のことだけだった。
運転手、僕を轢いた運転手。
轢かれる瞬間、見開かれた僕の目に映った人間の性別は男、だった気がする。若い、僕とそれ程年も違わないかもしれない男。
彼は何故信号を無視したのだろう。そして僕を轢いた瞬間何を思ったのだろう。無関係の人間達の中で一人顔を青くさせて、救急車を呼ぶことも出来ずにガクガクと震えているのかもしれない。
それとも僕を轢いてしまった現実から逃走してしまったのかもしれなかった。今頃は一人罪悪感を抱えて高速道路でも走っているのかも。いや信号無視をするような男だから、罪悪感なんてない卑劣で残酷な奴かもしれない。
何故自分はもっと綺麗に死ねないのだろう。今更自分を殺した男のことをぐだぐだ考えて何になる。僕は助からないだろうし、男が僕を殺した事実に変わりはない。
僕は笑った。笑ったからといって、僕の顔だったものはもう、笑みを浮かべたりはしないだろう。それが分かっているからこそ、僕はこの場で笑えたのだ。
人々のざわめきが遠くなる。意識が薄くなってゆく。タイヤの音はとっくに潰えて、それなのに僕の耳に最後まで残っているのはからからと乾いた音で、記憶に残っているのは若い男の姿だった。
ああ、もう終わりか。
(2007/3/20)
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