幼い頃、友達が男子から首を絞められているのを見てしまったことがある。その男子はクラスの男子グループのリーダーで、私の友達は女子だが負けん気の強い、男勝りな子であった。
どういう経緯でその男子が友達の首を絞めたのかは知りようがないが、ただ、ほんの子どもであった私には首絞めの光景は衝撃であった。
リーダーだけあって背が高く、腕力のあった男子はありったけの力で私の友達の首に手を掛けている。二人がいる場所と私がそれを目撃している場所はあまりに遠かったので声も音も一切聞こえない。だからして私は首がどういう音で鳴くのか知りようがなかった。きゅう、と細くか弱い音を出すのか。ぎゅうと鈍く苦しい音なのか。もしかしたら音など上げないのかもしれない。もしかしたらそれは断末魔の如く醜い音なのかもしれない。もしかしたら私が聞いたことのないような未知のものなのかもしれない。ああ。
そこは子どもの遊び場として有名だった場所で、遊具などはないものの無数の木やら花やらが植わっていた。私は一本の太い木に半身を隠しながら、もう半身を乗り出して光景を見ていた。桜の木だったのかもしれない。ピンク色が瞳に浮かぶから。
私は桜の木から半身をのぞかせて、衝撃的だと思いながらけれどその場を決して動かなかった。
異様な光景。
そこは異世界。
彼はそれから少しして友達の首から手を放した。彼女は苦しそうに、激しく咳をしている。男子も少しやりすぎたと思ったのか、二、三歩後ずさりしたかと思うと、背を向けていっきに走り出した。桜の花が目の前を散り、私の友達はまだ激しく咳をしながら首を撫でていた。
私はとうとう我慢できずに飛び出して、彼女の元へと駆け寄った。どうしたの、大丈夫、等と白々しくも労わるように声をかけた。
大丈夫、心配しないで。
彼女は気丈にも笑ったが、健康的な肌色であるはずの首が、今は不健康な赤になっており、輪を嵌めているかのようで、私はこくりと喉を鳴らした。
それはとても衝撃的で。
それはとても魅力的で――美しい光景。
私の家は経済的にゆとりがなかった。簡単に言えば貧乏である。父は酒呑みで、給料もほとんどお酒に消えてしまう。母は専業主婦であったが、父がそれだから多少働かなければやっていけなかったらしい。家には大量の内職道具があった。
私は一人娘だが、同じ一人っ子のクラスメイトたちとは違い、甘やかされ玩具を独り占めという訳にはいかなかった。そもそも毎日の食費だって危ういのに、あってもなくてもいい玩具なぞ買ってもらえるわけがない。母にねだったことは何回かあるが、その度にはぐらかされてしまうのだ。そうしているうちに幼かった私も学習し、泣こうがねだろうが所詮は無駄なのだと悟った。
しかし一つだけ、私の質素な部屋には玩具があった。机代わりのちゃぶ台の上にぽつりと座る、私の玩具。
それは築何十年かしれないこの汚く古臭い家にはとても不釣合いな、仰々しい人形である。白い肌に桜のようなほっぺた、可愛らしい赤い唇、小さな顔から零れ落ちそうな程の大きな瞳、そして私のものよりも上等な向日葵色のドレスを着ている少女の型の人形で、五十センチくらいあるだろうか。とても愛くるしいその人形は、父親が知人から貰ってきたものだった。
髪一本一本から靴の先まで美しい人形ではあるが、私が一番気に入っていたのは何といっても首であった。文字通り人形の首。白く、人間としてはありえないくらい細いその首は、それだけで芸術作品のようだと思った。
人形を貰って最初にしたことは、首に手を掛けることだった。私は小さな自室の襖戸を閉めて、小さなちゃぶ台に彼女を置いた。畳の上に直に座ってうっとりと眺める。そして半ば必然のように首に手を掛けた。
白い首はきゅうともぎゅうとも鳴らず、桜色のほっぺたも変化せず、首輪のような醜い後がつくわけでもない。只、愛くるしく無垢なる表情で、私をじっと眺めているだけだった。高揚はすぐに消えてしまう。つまらない。私は酷くがっかりして、その人形から手を放す。人形の表情は一ミリたりとも変わらなかった。
「はあ」
ため息が漏れて、灯りもつけない部屋に流れていった。いつの間にか窓の外は暗色で、部屋も闇に染まっていた。それでも人形の色は白い。白いまま。
人形では本当の欲求を満たしてくれはしない。それでも私はそれから人形の首を絞め続けた。こうしていればこの綺麗な人形が鳴いてくれるかもしれないなんて、夢想を抱いて。
白い首が醜い色に染まるかもしれないと思って。
何をしてもいい、何もしなくていい。人形は喋らないし、動かない。只、私の所有物であり続ける。
頭がおかしいのだろうか、何度も思って、けれど思った先にあるのはいつもその人形で、私の思いは全て人形へと注入されていた。
そんなことを繰り返していたある日、人形が消えた。
母に訊いても知らないと言い張る。父にも訊いたがやはり知らないの一点張り。父は酔うとたまに無断で人の部屋に入ったりすることがあったので、私は彼が一番怪しいと踏んだのだが、それでもあまり深く追求することはできず、私はやむなく人形を諦めるしかほかなかった。
夜、夢を見た。
突然消えてしまった愛らしい人形が、あの無垢なる表情のままで私の首を絞めにくるのだ。夢の中の私は特に抵抗もせずに、寝ている姿そのままで人形に首を絞められる。
首を絞められているのは私だから、残念ながら念願である首を絞められたときの表情やらというのを見ることはできなかった。小さな、細い指は冷たく、それでいて人形らしくない柔らかさを持っていた。きゅう、ぎゅう、そういう音がしたのかもしれないし、しなかったかもしれない。私は私の人形に首を絞められていた。
不思議と苦しくはなかった。
残念なだけ。
この場に鏡があればあればよかったのにと思う。でも苦しくはないから、やっぱりそういう醜い表情にはなっていないのかなとも思う。私は朝起きるまでずっと冷たい手に絞められていた。
その日から私の夢には必ず人形が出てくるようになった。人形の表情は然として変わらず、割と不器用な仕草で指を私の首へと掛ける。私は私でやっぱり抵抗なんてしないで、ただそれを待っている。
彼女は怒っているのかしら、私が今まで首を絞めていたから。
ある夜そう思った。いつのことだろう。桜が舞い散る春の夜の事。人形に首を絞められるのが日常になっていた頃。
私は相変わらずの細い、体温のない白い指を感じながら、妙に冷静であった。人形は私の上に馬乗りしながら、絞めている。
不意に桜色のほっぺたが瞳に入った。それと赤い唇。私は首を絞められているというのに、あまりの魅力に思わずしまりのない顔を作ってしまった。
どんな笑顔であっただろうか。残念ながら此処に鏡は現れなかったので知る由もないが、私の顔を見たとたん、今まで表情を一切変えなかった人形が微笑んだのだ。
愛くるしい少女のその表情、芸術のような作り物のようなそんな笑顔ではなく、桜の頬が微かに蒸気し、大きな瞳を細めて小さな唇を吊り上げたその表情の何と魅力的なことか。そして何と嬉しそうなことか。
ああそうか。
愛くるしい人形は私を恨んでいるんじゃなかった。
いいえ、むしろ感謝してくれていたのだ。
人形の指の力が強くなった。同時に私の口から何ともいえない声が漏れる。息ができない、苦しくなっていく。意識がなくなっていく。
徐々に朦朧としていく意識の中で、精一杯の笑顔を人形に向けた。
とてつもなく醜く、歪んだ笑みであろうことは自分でも分かっていたが、人形は桜の頬を染めてもったいないほどの笑顔で私を包んだ。
ああ、私のなんて醜いこと。
ああ、彼女のなんて美しいこと。
最後に浮かべたのはどんな笑みだったのだろうか。人間らしい、醜い顔であったらいいな。薄れていく意識の中で私は思った。幼い頃に見たあの光景よりももっと酷いことになっているのだろう、きっと。
ああ、でも。
人形の表情は恍惚とした、満ち足りたもので。
私はすっかり安心して、そのまま意識を手放した。
(2006/9/7)
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