雷蔵が人を殺めたのはこれが初めてではなかった。
 生臭い液体が飛び散る中で、呆然とした様子もなく、かといっていつもの穏やかな笑みを浮かべるでもない彼は、何を思って同じ顔をした自分を見ていたのだろう。
 
「帰ろう、三郎」

 声にもやはり呆けた様子はなく、雷蔵は三郎の方へと踏み出した。
 服に吸われた血の色は黒く変色している。空を染めかけている闇に似ているそれが、やけに記憶に残った。




「実習きつかったな」
 
 校舎の屋根に寝転びながら、雷蔵は小さく呟いた。隣で同じように寝転んでいた三郎は、同意しようか一瞬迷い、結局何も言わず、とりとめもなく空を見上げる。果てない青が逆に、昨日のことを思い出させるのは分かっていたが。

 雷蔵は気味が悪いくらいいつも通りだった。朝起きて、真新しい制服に着替えて、朝食を食べに行き、授業に出る。
 まるで昨日のことだけすっぽりと、どこかに落としてしまったかのような彼の行動。
 
 只一つ、黒く汚れてしまった制服だけが昨日の出来事が嘘で無い証だ。
 けれどそれも雷蔵が、ここに来る前に燃してしまった。赤い火の中で黒々とした炭に変わってゆく光景が目に浮かぶ。
 
 雷蔵が人を殺めたのはこれが初めてではなかった。
 
 五年に上がってから、実習も危険なものが増えてきた。
 もちろん忍者は戦闘要員ではない。逃げることが基本である。
 
 しかし上級生とはいえ、忍びとしてはまだまだ未熟な自分達は時として、逃走に失敗し。結果、敵を殺める羽目になったり、最悪の場合は自らの命を落とすこともある。
 
 雷蔵は逃げ切れなかったのだ。彼は最悪の事態は避けられたものの、自らの手を汚してしまった。
 
 一足先に実習が終わった三郎は、教師から雷蔵が戻ってきていないと聞かされた。
 
 雷蔵は迷い癖があるとはいえ優秀には違いないので、所定の時間を過ぎても帰ってきていないのはおかしかった。教師の了承を得て彼の実習場所へと向かった三郎が見たのは、黒黒とした血に塗れた雷蔵だった。

 予測していた事態よりましだったとはいえ、それでもかなり衝撃を受けた。
 思えば、人を殺めた直後の彼は見たことがなかった。そこに穏やかで面倒見のいい、下級生に慕われている雷蔵はいなかった。いたのは、僅かに微笑んでいるような、泣き出しそうな、困っているような、安心しているような、人間が一生の間に浮かべるほぼ全ての感情を顔に浮かばせている一人の男。

 三郎は目を閉じた。
 
 衝撃を受けたのは、彼が人を殺したことに対してではない。そうではなく、彼の浮かべている表情だった。ほぼ全てといってもいいほど浮かべていたあの表情に、只唯一抜け落ちていたもの。

 それは、

「迷えば良かったのに」

 迷いだ。

 悪い癖だと周囲から散々に言われていた『迷い』が、そのときの彼には見当たらなかった。

 雷蔵は選択肢を作らなかったのだ。自らが生き残る、これ以外には。

 三郎は目を開けた。
 迷えば死んでいたかもしれない、隣に寝転んでいる男のことを思う。
 
 けして最悪の、彼が命を落としてしまう事態を望んでいるわけではない。しかし彼には僅かでも良いから、幾つもの選択肢の間を彷徨っていて欲しかった。
 
 どうしようもない矛盾には気がついている。
 願望と現実の差異にも、都合がよすぎる自分の台詞にも。
 
 それでも三郎は幾度となく呟く。

「君には迷っていて欲しかった」

 雷蔵は返事をくれなかった。
 隣で寝転び、所々雲の浮かぶ青い空を見上げている彼の表情は複雑だったが、やはり昨日のように迷いだけはどうしても伺うことができなかった。