娘は毎朝毎晩、峠の地蔵の前で一人立ち続けていた。何をするでもなく、ただ無表情で幾日もそこに立ち続けていた。

 ある日、通りがかった若い男が娘に話しかけた。「峠の地蔵の前にあなたが立っていること、噂になっていますよ」そう言うと娘は青白い顔を男に向けて、何の表情も浮かべていない顔で小さく頷いた。男もまた喜怒哀楽を全て打ち消したような表情で、立ち続ける娘を見つめる。

 どれだけそうしていただろうか、ややあって男は娘に問うように「あなたは一体何をしているのですか」と小さく言葉を発した。娘はやはり無表情で、「私はあの人を待っているの」と答えた。男はああやはり、とでも言いたげに目を伏せる。それから二人の間に長い沈黙が流れた。

 どこからか烏の鳴く声が聞こえてくる。時は刻一刻と過ぎて、いつのまにか周囲にほのかな闇を落としていた。夜の始まりだったが、娘は相変わらず案山子のように立ち続けていた。男もまた、端正な顔を崩さずに娘の隣で立ち続ける。けして言葉は交わさず、迫ってくる闇を待ち続けるかのように二人で立ち尽くした。

 ふと男は、これまで一貫して無表情だった娘の顔が暗闇の中で変化していることに気づいた。病的なほど白い顔に、艶やかな笑みが浮かんでいたのだ。娘は何とも嬉しそうに、目の前の何もない空間に向かって笑いかけた。男は微笑み続ける娘を凝視し、彼女の目の前に広がる闇の中に何があるのかと目をこらした。

 しかし闇は闇でしかなく、娘の目の前には何も存在していない。それなのに娘は、まるで愛しい者に向けるかのように目を細め、口元を緩ませている。

 「娘さん、そこに誰かいるのですか」小さな声で男が尋ねると、娘は「ええ」と頷いた。か細いが淀みのない、透き通った声で、「帰りを待ち続けていた人が」と嬉しそうに呟いた。

 立ち続け、棒のようになったであろう足を娘は前へと出す。そして艶やかな笑みのまま空を掻き抱いた。まるで男には見えない、愛しい誰かを抱きしめるように。

 「待っておりましたわ、愛しいお方」優しい、健気な声で娘が呟いた。裾からはみ出る細い白い手が音もなく誰かを抱きしめている。男が見つめる中、娘は誰かの体に顔をあずけるように首を傾けた。闇に彼女の白い肌だけが浮かび上がり、目の前の光景を一層異様にさせていた。

 「愛しいお方、愛しいお方。お菊はずぅと待っておりました。さあさ、家へ帰りましょう」娘はそぅっと腕を下ろした。「ねえ、もう、菊から離れないで下さいな」

 甘えるような声で呟くと、娘はそのままそろりと歩き始めた。ゆっくりと、ゆっくりと、亀のような歩みで道を歩んでいく。男はその光景を黙って見つめていた。やがて娘の姿は闇に消え、残ったのは静かに佇む地蔵と男だけになってしまった。

 「ああ結局」しばらく娘の消えた方へと顔を向けていた男は、ふと溜息に似た声を出した。そして少々の悲しみを端正な顔に浮かべて、娘の消えた道から視線を外した。「待ち人は亡くなってしまったのだと伝えることができなかった」

 誰とも無しに呟いて、男は娘と逆の方向に足を踏み出す。

 そうして無駄な音は一切立てずに若い男は闇へと消え去った。

 



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男、というのは誰でもいいんだけど、私の中では一応利吉さん。
いつもとは違った書き方にチャレンジしたかったんです。