早朝。顔を洗った帰りに、飼育小屋の前で何かを一心に眺めている孫兵を見かけた。 普段なら変わり者の同級生のことなど特に気にもかけない藤内であったが、あまりに孫兵が一生懸命だった為に、何をそんなに熱心に見ているのかと近づいてみた。 「何見てるんだ」 声をかけた相手は振り向きもせずに飼育小屋を眺め続けている。表情も分からない。ただ、聞こえるか聞こえないかというくらい僅かな、けれど嬉しそうな声が返ってきた。 「さなぎだ」 よく見ようと小屋に近づくと、静かに、と彼に制止された。 それでも気になって気になって、顔を覗かせてみる。 大きな飼育小屋の中には、細い木が植わっており、その枝に黄金色に光るさなぎがぽつりとぶらさがっていた。初めて見たそれは可愛らしく、綺麗だった。 「うわ、凄いっ」 思わず叫んでしまったが、孫兵には注意されなかった。彼は藤内が自分と同意見であることが嬉しかったのか、顔を緩ませている。 にこにこと緊張感のない顔は、彼のお気に入りの生物にのみ見せる笑顔だ。 間近ではめったに見られることのない表情に、藤内は驚きながら、こくりと頷いた。 特別虫に興味を抱いたことはないが、小屋越しに頼りなさげにぶら下がる黄金には少なからず感動していた。 「これ、何のさなぎなんだ?」 どことなく大人びた感のある同級生だが、今は表情といい嬉々とした声といい、歳相応に見えた。単純ではあるが、何だかこちらまで晴れ晴れとした気持ちになってしまう。 藤内は彼を虜にしている黄金のさなぎを静かに見つめた。 時が止まったかのようにさなぎに魅入っていると、離れたところから鐘の音が聞こえてきた。それが予鈴だと気づくのにあまり時間はいらなかった。 さなぎをずっと見ていたい気はするものの、さすがに予鈴を無視することはできない。 隣でまだ名残惜しそうに飼育小屋の中を眺めている孫兵の袖を引っ張る。 「授業始まるぞ」 明らかに沈んだ表情で呟いて、孫兵は小屋に背を向けた。先ほどの輝いた表情は嘘のように消えている。 それが何だか残念で。 気がつけば藤内は、孫兵の肩に手を乗っけて励ますように口に出していた。 「また、授業が終わった後に見にくればいいじゃないか」 藤内の言葉にゆっくりながらも、けれど深く納得するように頷いて、孫兵は表情を和らげた。 ――あ、好きだ。 今まで一度も思ったことはなかったが。けれど彼のその表情は素直に純粋に、好きだと思えた。もっと見てみたいと思ったのだ。彼の、笑った顔を。優しい笑顔を。 「そうだ、藤内」 藤内に向かって孫兵が笑う。例えその笑顔が間接的に、彼を虜にしてやまないさなぎに向けられたものだとしても、藤内にはそれで十分だった。十分すぎた。 「……うん!」 機嫌よさそうに笑う孫兵に藤内も目を細めた。 少なくともまた見れるのだ。彼の笑顔を間近で見ることができる。藤内は遠のいていく小屋を振り返った。 小さなさなぎが蝶になる瞬間を思って。
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