夢を見た。
 耐え難い悪夢を。


「ああ、まったく!」

 井戸の傍、水を汲みながら滝夜叉丸は一人憤慨した。熱い頭を冷まそうと桶の中に顔を突っ込むが、今だ思い出しても腹が立つ。たかが夢だが、それにしても耐え難いものだったと滝夜叉丸は思った。

「おや、滝。朝っぱらから飛び出していったと思ったらこんなところにいたの」
「喜八郎」

 聞き慣れた同室者の声に顔を上げると、いつも通りの無表情が目に映った。

 寝間着から制服に着替え終わっているが、髪は結っておらず垂らしたままだ。意外と身なりは整える喜八郎のらしくない行動に、滝夜叉丸は僅かに眉を顰めた。

「どうしたんだ、その髪」
「ああ」

 短く返事をして、喜八郎は自分の髪を一束手に取って見せた。そうして何が面白いのか、弄ぶように髪を己の指に巻きつける。

「タカ丸さんが結ってくれるって、昨日言ってたから」
「……その名を言うな」

 今一番聞きたくなかった名前に思わず低い声が出てしまった。

 喜八郎は相変わらず無表情だが、髪をいじくる手をぴたと止める。

 しかし滝夜叉丸にはそんなことに構っている余裕はなく、またま内心の苛立ちを抑える為に桶に顔を突っ込んだ。ぱしゃり、と桶の中の水が勢いよく飛び散る。

「何かあったの? 彼と」
「……いや、別に何も無い」

 濡れた顔を上げてむっとした声で答えると、喜八郎は興味なさそうな声でふうんと相槌を打った。

 淡白な言葉を返されると寂しいというか複雑な感情を抱いてしまう滝夜叉丸であったが、今回ばかりはほっとしてしまった。変に追及されると困るのだ。

 タカ丸と何かあったのは真実だ。ただしそれは夢の中。

 どんなに胸くそ悪い夢でも、起きてしばらくするといつの間にか曖昧になり、昼を迎える頃にはすっかり掻き消えているものだ。

 ああそれなのに、今回は何の気まぐれか薄らぐどころか不快感は募るばかり。さっさと忘れて教室に向かいたいというのに、それもままならぬ。

 顔をごしごしと手拭で拭く。内心では何かに八つ当たりたい気持ちが強かったが、さすがにそんなこともできない。結局発散できない苛立ちは、妙な方向へと向かってしまう。

(うん?)

 顔を手拭から上げると、そこにはまだ喜八郎が立っていた。滝夜叉丸のように顔を洗うでもなく、ただぼんやりと立ち続けている。

 確か先ほど喜八郎は奴に髪を結ってもらうと言っていたのでは? と疑問に思った滝夜叉丸は彼に声をかけようとした。

「おい喜八――」
「おはよう喜八郎ー! あれ、滝夜叉丸も」

 しかし滝夜叉丸の言葉は、いきなり聞こえてきた妙に明るい声に遮られる。聞き覚えのあるその声に口元と頬を引きつらせ、ぎぎぎっという濁点付の擬音がたちそうなほどゆっくりゆっくり振り向くと。

「何でタカ丸さんがいるんだー!」

 滝夜叉丸は悲鳴を上げると、ようやっと冷えてきた頭を抱えて座り込んだ。何なんだこの事態はどういうことなんだどうしてよりにもよって奴がここにやってくるんだという問いが悶々と頭を巡る。

 その問いに答えるかのように、淡白な喜八郎の声が頭上から降ってきた。

「言い忘れてたんだけど、実はここを待ち合わせ場所にしてて」
「ええい、それをさっさと言わんか喜八郎っ! 大体髪を結うんだったらここじゃなくてタカ丸さんの部屋にでもいけばいいだろうがっ」
「ごめんごめん、おれ最近夜遅くまで起きている所為か朝に弱くなっちゃって。それで髪を結うついでに顔も洗っちゃおうってことになってさー」

 喜八郎の代わりに答えたのはタカ丸だった。気楽を絵に描いたような表情で、あははと笑う。

 いつものことだが今日は更にその笑顔が癪に障り、滝夜叉丸は眉間の皺を深くした。

 深くするだけで、怒鳴ることも追い払うことも出来ないのが痛い。たった二つの歳の差がこんなにも自分を悩ませるとは。ぎりぎりと胃が食い込むような錯覚さえ受け、滝夜叉丸は軽く歯軋りした。

「ああ、もういい……」

 歯軋りを止めて、滝夜叉丸は頭を落とした。

 傍から見るとまるで項垂れているかのような格好になっているだろうが、これはタカ丸の姿を目の端にも入れたくないという考えがあってのことである。実際は悲しがっているわけでも残念がっているわけでもない。

 しかし喜八郎はともかくタカ丸は何かを勘違いしたようで、項垂れるような格好の滝夜叉丸へと心配そうに声を掛けてきた。

「どうしたの? 元気なさそうだけど」
「ほっといて下さい」

 タカ丸の声を振りきるように顔を背け、校舎にむかって一歩踏み出す。これ以上彼と一緒に居れば、あの悪夢を鮮明に思い出してしまう。それだけはどうしても避けたい。避けたいのだが……

「ねえ滝」

 後ろから思い切り髪を引っ張られた。

 あまりの力に、そのまま自慢の黒髪が抜けてしまうかと思った程だ。

 怒りを込めて振り返ると、無表情な顔が自分を見つめていた。喜八郎は髪を引っ張る力を緩め、口を開けた。

「昨晩随分うなされていたようだけれど。もしかしてタカ丸さんの夢でも見てたの?」
「何を……」
「だって今日、随分タカ丸さんを避けているじゃない」

 喜八郎の声音が微妙に普段よりも上がっていて、滝夜叉丸は後ずさった。けれど髪を握られているため、完全に逃れることができない。

 いっそのこと殴り倒してしまおうかこいつ、と危ない考えがよぎるが、そんなことをすると後が面倒だ。かといって夢の内容を話すのは嫌だった。傍にはタカ丸もいるのだし。

 ぐるぐると考えていると、一つの素晴らしい考えに思い当たった。そうだ、何も本当のことを話す必要はない。適当にその場しのぎの嘘を言えばいいではないか。そう思ったのだ。

「……ええとだな、その」

 もごもごと口を動かし、本当は言いたくないのだが……と前置きする。

「髪を変な風に結われる夢を見たんだ」
「へえ。どんな風に」
「口で言うのもはばかられるような髪形だ」
「ふうん」

 喜八郎は何かを含んだような声で頷いた。表情が伺えないのが恐ろしい。眉根一つ動かさず、喜八郎は瞬きもせずに滝夜叉丸の凝視してきた。

「それはおかしいね」
「何がだ」
「だって滝、そんなこと一言も言ってなかったもの。寝言で」
「うっ……」

 よりにもよって寝言まで呟いていたのか! いやそれ以前にお前は眠っていないのか? 

 滝夜叉丸はいよいよ頭を抱えたい思いでいっぱいになった。

 喜八郎は予断を許さず、厳しく追求してくる。

 他人が見た夢を探ることに何の意味があるのだろうか。彼の悪趣味さには泣けてくる。

 タカ丸もタカ丸で。ちらりと表情を伺ってみると、彼は好奇心に満ち溢れた顔で二人を見比べていた。

 ああもう嫌だ、逃げ出したい。何故私がこのような目に遭っているのだ。何か仏を冒涜するようなことをしたか。いいやそんなこと断じてしていない。ああだのに何故……自問自答をしていると、ややあって喜八郎が声を掛けてきた。

「もしかして、タカ丸さんに抱かれる夢でも見たの」

 時が止まった。

 あられもないその言葉に、滝夜叉丸は端正な顔を真っ赤に染め上げて、無理やり綾部の手から己の髪をひったくった。冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない、と一息で怒鳴って、沸騰しそうな勢いで今までわだかまっていた夢の内容をぶちまける。

「そんな夢なわけがないだろう! 私が見たのはタカ丸さんに成績で負けた夢だ! 決してそんな夢ではない! 断じて違うっ!」

 学園中に響き渡りそうな声で叫んで、きょとんとした様子の綾部を思い切り睨みつけた。

 体中が熱く、服ごと冷たい井戸の中に沈みたいと思った。

 視界の隅で綾部と同じくきょとんとしたような表情を浮かべるタカ丸の赤く染まっていない肌が恨めしい。

 今度は軽くではなく、すさまじい音を立てこれみよがしに歯軋りすると、滝夜叉丸は二人を井戸の傍に残して、地を揺るがすような音を立てて立ち去る。

(ああ何だってあいつはああいう思考にしか頭がいかないんだ)

 あの言葉ぶりからすると、喜八郎は自分の寝言など聞いていないのではないだろうか。

 おそらくただのカマかけだったのだ。彼はああやって他人で遊ぶのを楽しんでいるのだ。ええい悔しい。

 滝夜叉丸は袖で真っ赤な顔を拭った。

 成績で負けた夢がなんだ。喜八郎が言ったおぞましい言葉にくらべればそんなもの果てしなくマシな方ではないか。何故私が男に――それもあのタカ丸さんに抱かれなければいけないんだ。まったくおぞましい、おぞましすぎる。

 熱が冷めない頭で、滝夜叉丸は校舎に向かいながら歯軋りし続けた。

 

 
 その後。一時間目の授業が始まる前には、もう夢の内容はほとんど掻き消えていたが、喜八郎が放った言葉はどうしても忘れることができず、滝夜叉丸は数日の間いいようもない苛々を抱えるはめになった。

 

 

 


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そんなわけで(どんなわけだ)久しぶりのタカ滝でした。綾部大活躍?
綾部は何となく同学年の子達で遊んでそうなイメージがあります。(と、ではなく)

それにしてもなんかうちの滝は始終苛々してますね。