今宵は月が高い。
気まぐれに流れる雲が、時折月光を隠して闇を深くする。
風に遊ばれた癖の強い髪を適当に指で梳き、藤内はゆっくりと顔を上げた。右頬の違和感を手の甲でついと拭えば、過ぎった鋭さに目を細めた。甲の血をもう片方の手でいささか乱暴に拭う。頬は痛むが、生憎消毒薬の持ち合わせはない。
一年か、或いは二年だったか。今夜は臨時授業が行われおり、がやがやと賑やかな様子だったが、さすがにもう静まり返っている頃合だろう。
虫の音と風に擦りあう木々の喧騒ばかりが響いて、藤内の身を責め立てる。
時が経つのを忘れてしまうのは昔からの悪い癖だ。
苦々しく思いながら藤内は立ち上がった。制服に付いた土を素早くはたく。今更急ぐこともなかろうが、重い目蓋をいつまで常の状態に保っていられるか、いささか不安ではあった。
部屋で着替える手間を少しでも減らす為、山を降りる途中に頭巾を解いてしまう。どうせ誰も見てはいないのだ、少々の横着も構うまい。ついでに上着も脱いでしまおうかと帯に手をかける。
しかしそれが解かれることはなかった。今宵幾度目か、月が隠れて辺りが一層の闇に染まる。雲の仕業だったが、風の流れが微かに変化し、何より虫の音が止んだのは、人によるものに違いない。
にわかに走った緊張に、藤内は静かに身構えた。心なしか頬の傷がぴりぴり痛む。
手持ちの武器の数を思い起こす。授業の復習に使った苦無と、手首に巻いた布の中に棒手裏剣。解いた頭巾は肩にかけたままだ。
静まり返った山中、気配が次第に濃厚になってゆく。藤内はあくまで警戒を解かなかったが、徐々に相手が誰であるかも分かり始めていたので、やれ武器を使う必要はなさそうだぞと懐に伸ばしかけていた手を下ろした。
未だ姿を見せぬ相手も、藤内の事を認めたのであろう。手負いの獣の放つ殺気にも似た気配は、影を潜めつつあった。けれども、相変わらず姿は現さない。訝しく眉を寄せて、恐らく彼であろうとあたりをつけた、名を呼んでみる。
「間違ってたらすまん、孫兵だろ、お前」
返事がない。断り通り見当違いだったかと首を捻るが、寸の間の沈黙の後、茂みの中からややばつが悪そうに歩み出てきた。
「やっぱ孫兵じゃんか。でも、どうしてこんな時分に……」
言葉が切れたのは、見回した彼の姿が酷いものだったからだ。顔には葉で切ったような薄い傷が幾つも浮かび、結い紐も頭巾も解かれて、肩まで伸びた黒髪に葉がくっ付いている。大きな怪我はないが、それが逆に気を引いた。
「おい、何だってこんな姿に」
「藤内には関係のない事だろう」
「そう言われりゃ、そうだけれど」
追求するなと睨まれて、さすがにそれ以上訳を聞ける筈もなく、藤内は口をつぐんだ。孫兵は一寸安心したように息を吐いて、藤内に背を向けると、また茂みの中へ入り込もうとする。は、と間の抜けた声を出し、藤内は慌てて孫兵の腕を掴んだ。
「どこ行くんだよ。学園に帰るんだろう」
「帰るさ。だが、お前と一緒に帰るつもりはない」
「おれと居ると何か不味いことでもあるのか」
「……とにかく放してくれ」
振り払うようにされ、藤内はたたらを踏んだ。突き放した孫兵はといえば、憮然としたような顔で藤内を見つめた。
虫の音は戻りつつあったが、二人の間に流れる沈黙は中々打ち消せそうにもなかった。彼と諍いを起こすつもりはまったくないのだが、孫兵の方はといえば妙に気が立っているようで、このままだとどのような展開に発展するのか分からない。
彼が何故このような場所に居て、己と連れ立って帰ることを望まないのか。興味がそそられぬといえば嘘になる。さりとて、踏み込めば容赦なく斬られるだろう。今の孫兵の雰囲気を察するに。
「分かったよ。じゃあな」
「ああ……藤内」
「ん?」
「すまんな」
「な、何で謝るんだよ」
唐突なしおらさに藤内は仰け反ったが、孫兵はそれだけ言うと茂みの中へ姿を消した。虫の音がりぃりぃと、やけに涼やかに戻り鳴り響く。
「本当に、何だっていうんだ」
呟きは虫の音と同様に闇が飲み込んだ。
寝不足の緩い目に朝日は眩しい。
布団へ戻りたくなる己を叱咤して、とりあえず井戸へ顔を洗いに行く途中、じゅんこを連れた孫兵に出くわした。夜といい今といい、よく会うなあとぼんやり思っていると、あちらから声をかけられた。打って変わってにこやかな様子である。
「昨日は悪かったな。一寸人の気配に敏感にならざるを得ない訳があってね」
「気にしてないって」
言いつつも、孫兵のあまりの変わりようは非常に気になっていた。とにかく上機嫌、鼻唄でも唄いださんばかりなのだ。
だが、つつくのは憚られた。朝から彼の機嫌を損ねるような面倒くさい事はしたくはなかったし、早く顔を洗いに行きたくもあった。そのまま話を切り上げて井戸へ向かおうとすると、何故か、恐ろしく不可解な事に、孫兵からしかと腕を掴まれた。
「な、に」
「気づかないか、藤内。いつもと違うだろう」
「は?」
訳が分からないまま、とりあえず孫兵の顔を見つめる。変わったことといえば、やけに友好的な笑みを浮かべている事だけ……ではないのか? 全身を眺めるが、やはり分からない。相違点といえば、表情と、傷がちゃんと手当てされている事と、首に絡む蛇の細長い体躯、と。
「あ、じゅんこの事か」
「やはり分かるか!」
いや、唯の勘。
とはいえ、彼が心を動かすのはたいてい毒虫達の事だから、まったくの、といえば嘘になるが。
孫兵が蛇の体を優しく一撫でする。美しいものを愛でるように。こういう時、藤内は少し困る。自分の足場が物凄く狭く見える気がするので。
「脱皮したんだ」
「え、ああ、うん。そういやいつもより艶々してるような気がしないでも」
「本当はむやみやたらと場所を移動するのは避けたいところだが、昨夜は特別騒々しかったからな」
頷く。それで藤内も、邪魔をされないように山の方へ向かったのだ。
「しかし藤内が山中に居るとは思わなかった。予習でもしてたのか?」
「や、今回は復習」
「ああ。にしても無事に終わって良かった。万が一、脱皮不全などに陥ったらと思うと気が気ではなくて」
「うん」
饒舌に語りだす孫兵に、藤内は曖昧に相槌を打った。
真相を知れば知るほど、心中で思い切り脱力していたが、彼らしいといえば彼らしい。獣じみた殺気すら、愛おしい彼女の為なのだ。
どこまでもしなやかな、衣を脱いだばかりの美しいからだを男に巻きつけて、雌蛇が細やかに笑う。それに応えるよう、孫兵が傷だらけの顔で微笑むから、藤内は一人こっそりと溜息を漏らすのだった。
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