文芸部室の古びた扉を開けた私の目に飛び込んできたのは、鬼気迫った先輩の背中だった。これじゃあ駄目だとか、どうしてこうなるんだとかぶつぶつ呟きながら丸めた原稿用紙を後ろへ投げ捨てている。今や部屋の中はゴミへと姿を変えた原稿用紙でいっぱいだった。

「先輩。後ろ、マンガみたいなことになってますけど」
「何も言うな綾部。分かってるんだけど、どうしても納得いくようなものが書けないんだ」

 先輩の口調は普段と何ら変らなかった。最も、後輩に心配させないようにという彼なりの配慮なのかもしれないけれど。

 私は先輩が散らかした紙くずを一枚拾ってみた。感情のままに丸められたそれを広げてざっと目を通してみる。綺麗な字が紡ぐ文は中々に良いものだと思ったのだが、文章は原稿用紙の三分の二ぐらいのところで途絶えていた。

 部室に備え付けられているゴミ箱に原稿用紙を放り入れてから、私は先輩の様子を伺ってみる。かりかりと鉛筆を走らせながら、ときおりうーだとかあーだとか言葉になってない声を上げていた。

 これは相当切羽詰っているようだ。

 私は先輩に声をかけることなく自らの机に向かった。愛用のノートパソコンを立ち上げる。

 私は小説をパソコンで書いている。原稿用紙を買ってくるのは面倒くさいし、それに直接手書きするのはもっと面倒くさいからだ。

 その点パソコンは便利だ。ちょっとキーボードを叩けば文字は出てくるし、間違ったとしてもすぐに消去できる。コピー用紙は前の文芸部長が大量に部室に残していったので、わざわざ買ってくる必要も無い。最近ではパソコンでないと小説が書けないほどだ。

 それに対して久々知先輩は今どき珍しい手書き派。鉛筆を片手に自分の思い描く世界をかりかりと一生懸命刻んでいる。

 一度、先輩はパソコンを使えないんですかと尋ねてみたことがあった。すると先輩は「確かにあんまり得意じゃないけど」と笑った。

「でもさ、俺が原稿用紙に直接書いてるのはさ、そういう理由じゃなくて。何ていうか、実感が持てるんだよね。自分が一つの世界を創っているって」
「パソコンでは感じられないと?」
「うーん、少し味気なく感じるんだよなあ、パソコンだと。もちろん逆にパソコンじゃなきゃ駄目だって言う人もいるんだろうけどさ。要は個人の考え方の相違って奴かなあ。俺と同じ手書き派だけど、理由は違うってのもいるしさ」

 なるほど、先輩の言うことはもっともである。

 納得した私はそれ以降、先輩が原稿用紙を相手に奮闘することに疑問を持たなくなった。

 ただ、こうやって書いては消し書いては捨てるという行為を繰り返している姿を見ていると、パソコンの方が便利だろうにとぼんやり思ってしまう。磨り減る消しゴムと丸められる原稿用紙ももったいないが、それ以上に先輩が考えすぎで参ってしまわないかと思うのだ。

 私は少し考えた後、立ち上げたばかりのパソコンを閉じた。

「先輩、お菓子でも食べますか」
「ううう、こんな表現じゃあ……って、え? 何か言ったか綾部」
「だから何か食べませんかって。気分転換も大事だと思いますが」

 先輩が振り返る。私は鞄からお菓子の袋を取り出した。目に鮮やかな赤いパッケージを先輩に投げてよこす。受け取る準備も何もしていなかった先輩はしかし、持ち前の反射神経でしっかりとキャッチしてくれた。

「それ全部あげます」
「いいのか?」
「私の口には合いませんでしたから。先輩の口にも合わなかったら捨ててください」
「もったいないなあ」

 何十枚も原稿用紙を無駄にしている人には言われたくない台詞だ。

 ともあれ先輩は原稿用紙から目をはなし、貰ったお菓子に手を伸ばし始めた。私には塩味がきつすぎたのだが、先輩の口には合ったようだ。はじめは遠慮深げに一つつまんで口に入れていたが、やがて幾つか手に取って一気に放り込むようになった。

 私は先輩にあげたものとは別のお菓子を手にとって開けた。甘い香りが狭い部屋に広がる。それをつまんでいると、彼はお菓子をぽりぽりと咀嚼しながら話しかけてきた。

「これ美味いなあ。どこで売ってたんだ」
「学園の近くのコンビニで。新発売だというので試しに買ってみました」
「ふーん。今度行ってみるかな……そういえば綾部、さっき口に合わなかったって言ってたけど、これ食べたの」
「友達が同じものを買ってたので。どんな味なのかとつまんでみたんですけど、私には塩味がきつすぎました」
「へえ、綾部ってしょっぱいの駄目なんだ」
「少しなら大丈夫なんですが、こうも極端だと……先輩は平気なんですね」
「うん。むしろしょっぱいのは好きだよ俺」

 そこで先輩は手を止めて、それにしても面白いよなあと呟いた。

「俺たちってさあ、まったく違うだろ。小説の書き方も食べ物の好みも」
「そうですね」

 私は頷いた。確かにそうだ。私たちにはまるで共通点というものがない。強いてあげるなら同じ学園に通っているだとか、文芸部だとか、そういう表面的なことだけだ。性格も違えば、小説を書く方法も食べ物の好みも。

 先輩はこれの一体どこが面白いというのだろう。

 私は割と物事ははっきりさせたい方だ。いったん疑問が湧き上がると、訊かずにはいられなくなる。再びお菓子の袋に手をつっこみ始めた先輩に、私は躊躇い無く尋ねてみた。

「先輩は何故面白いと思ったんですか」
「そうだな」

 口に入れていたものを飲み込んでから、先輩は実に楽しそうな口調で、

「何もかもが違う俺たちがさ、同じこの部屋で自分だけの世界を創ってるんだ。表現も好みも目指すものも、何もかもが違う俺たちがだぞ。それって凄く面白いことだと思うんだよ」
「面白い、ですか」
「面白いな」

 先輩の言うことがよく分からなくて私は首を傾げた。いや、言っていることは分かるのだが面白いという感覚が理解できないのだ。

 よく分かりませんと率直に呟くと、先輩は「無理に理解しようと思わなくていいさ」と少し微笑んだ。赤い袋を傾けて、お菓子の小さい欠片まで飲み込んで、残った袋をゴミ箱に放り込む。それから先輩は私に背を向けて、再び原稿用紙と格闘し始めた。

 無理に理解しなくてもいいと言ったが、私はどうにも納得できなかった。月並みな言い方になるが、喉に小骨が引っかかった感じだ。

 先輩はきっと私の喉に小骨が刺さっただなんて思いもしないだろう。彼のことだから、自分の喉に刺さっても気づかないかもしれない。

 こんなことを言ったら先輩は、やっぱり俺たちって違うなあなんて笑うのだろうか。

 甘い香りが鼻先をつく。手に視線を落とすと、今更ながらお菓子が全然減っていないことに気づいた。

 

 

 

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勝手に文芸部な久々知と綾部。