障子戸を開けて入ってきたのが六年の留三郎だった為、一人医務室の番をしていた左近は少し眉根を寄せた。彼が医務室に寄るのは、大体が同学年の文次郎と諍いを起こして怪我をこさえた時だからである。しかも、比較的酷い傷の時だ。一体どこを傷めたのかと思って眺めていると、彼は至って平静の口振りで、ちょっといいか、と左近の前に腰を下ろした。
「何ですか」
「伊作の事なんだが」
「善法寺先輩なら、職員室に用があるとおっしゃっていましたよ」
「知っている。伊作の事といったが、実際用があるのは保健委員のお前なんだ」
「ぼくに?」
訝しく思って一層眉を寄せた。留三郎は生真面目な顔を崩して苦笑を浮かべる。
「ま、そんな顔しないで聞いてくれ。最近の伊作を見ていてどう思う」
「最近の先輩を……?」
「ここ数日、妙だと思わないか」
「……確かに最近、妙に平穏な日が続いていますね」
「それがいつからか、覚えているか」
「覚えてないことも……ないです、けど」
左近は少しだけ俯いて言い淀んでしまった。唐突な歯切れの悪さに、留三郎が怪訝な顔をする。気持ちは分かるが、左近としてはあまり口に出したい事柄でもない。言えば、眼前の六年は益々眉間に皺を寄せ首を傾げるかもしれない、そもそも左近自身だとて馬鹿馬鹿しいと切り捨てたい話なのだ。
だが、留三郎は黙って話の続きを待っている。仕方ないと腹を決めたとき、静かに障子が開いた。
「代わりにぼくがお話しましょう」
入ってきたのは一年の伏木蔵だ。彼は最上級生を目の前にしても怯む様子なく、むしろどこか嬉々として左近の隣に腰を下ろした。左近は微妙な面持ちで隣の一年に視線をやった。
「お前、話聞いていたのか」
「だって、何だか入って行きにくい雰囲気だったので、機会を窺っていたんです」
「窺っていたんですって、お前なあ。普通に入ってくればいいだろ」
「それじゃあ面白くないじゃないですか」
「面白くないって」
「すまんが、話を先に進めて貰えないか」
気づけば留三郎が呆れた表情で二人を見つめていた。さすがに口を閉ざすと、伏木蔵は左近の方を向いて、一寸頷いた。どうやら本当に続きを話してくれるらしい。
「伊作先輩は――」
しかしそこで邪魔が入った。またもや障子戸が開いて、乱太郎と数馬が顔を覗かせたのである。二人は部屋に漂う妙な空気も何のその、留三郎を見て朗らかな声をあげた。
「あれ、食満先輩どうなされたんですか」
「何かあったんですかあ?」
「三段田先輩と乱太郎。今ねえ、お地蔵様の話をしようとしてたの」
「ぼくは三段田ではなく三反田だ伏木蔵。名前くらいいい加減覚えてくれないか」
「お地蔵様って、倒れたお地蔵様の話?」
「はーい山短田先輩」
「……何かが違う気がする何かが……読みは一緒だが」
「左近先輩はあまり認めたくないみたいなんですけれど」
「あんな話を認めるわけがあるか! 非現実にも程がある」
「待て待て落ち着け。声が混じって訳分からん」
目の前で始まった賑やかしを制した留三郎は、新たに増えた二人も入れて円陣を組むよう座らせた。とりあえず静かになった新参に経緯を話し、その上で再度問いをかけられた。
左近を除いた保健委員はしばし顔を見合わせたが、結局代表して口を開いたのは、三年の数馬だった。
「四日前、ぼくら保健委員は町に薬を買いに行きました。ぼくらを連れて行った理由は、店の様子を見学させる為らしいです。色々大変な目にも遭ったんですが、言うのも聞くのも特に面白いことではないので省略しますね。とにかくその時はまだぼくらも、もちろん、善法寺先輩も相変わらず不運でした。何とか薬も買い終わり、帰路に着く途中、先輩がすっ転んだんです」
「そこまでは珍しい事でもないんですが」
「先輩は道端に転がっていたお地蔵様に躓いたんです。随分古びたお地蔵様で、顔にも胴体にも土がこびり付いて。起き上がった先輩は、危ないと思ったらしく、お地蔵様を道の脇に立たせました。ついでに土も払ってました」
「その後何事もなく学園に着いて、先輩とぼくたちはお風呂に向かいました」
「お風呂に入った後、皆でご飯を食べに行きましたー」
「思えば、その時にはもう先輩に不運な出来事は起こらなくなっていたんです」
「不思議だよねえ」
「ぼくはお地蔵様の恩返しだと思うな」
「馬鹿馬鹿しい、そんな事あるもんか」
「でも、説明がつかないですよ。今まで不運に見舞われっぱなしだった先輩が、不運じゃなくなるなんて。ぼくたちも不運が軽減されているみたいですし」
「う、それは」
「何でもいーじゃないですか、平和なら」
「そーだねー」
いつの間にか和やかな雰囲気になってしまった保健委員の面々だが、左近はといえばどうにも溜息を吐きたい気分だった。留三郎を見ると、あまりの突拍子のない、言ってしまえば御伽噺のような内容に物凄く複雑な表情をしていた。その気持ちは分かる。凄く分かると心中察していたが、彼は明るく笑う三人に水を差すような事はせず、音も立てずに立ち上がった。
「あれ、先輩帰られるんですか」
「ああ、大方話は聞けたし、おれもこれから委員会があるからな。邪魔をして悪かった」
留三郎は軽く片手を挙げ、さっさと部屋を出て行った。これで良かったんだろうか、と左近は僅かに不安を抱いた。何だか、少し、いや、かなり悪かったような気がする。
とはいえ思い当たる節はそれぐらいしかないのも事実であった。左近としては認めたくない馬鹿話であるが、他三人は何故かあっさり受け入れ平和そうに談笑している。
どころか、いつの間にかお茶菓子まで用意していた。乱太郎がご機嫌な面で、羊羹と饅頭を差し出す。
「先輩はどちらにしますかー」
数日で完全に平和ボケ。左近はいよいよ溜息を落としたが、一年はそ知らぬ顔で笑っている。戸は今度は開く事無く、賑やかな医務室内に立ち入る者は居そうにない。
これでいいのかと思いつつも、己も同じ保健委員と腹をくくれば、その内彼らのように降って沸いた幸運を素直に受け入れられる時が来るのだろうか。
甚だ疑問ではあった。
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