目が合ってしまったのが運の尽きだった。
慌てたように用具倉庫から飛び出てきた同級生の目が驚きと焦りに大きく見開かれていた。駆けだすつもりで踏み込んだ足を奇妙に制止させている。
仙蔵もまた、彼の突然の出現に足を止めていた。頭上を飛ぶ鳥の鳴き声ばかりが安穏と流れていく。
気づいた時には遅かった。その素早い身のこなしは野生の獣のようで、体を引き寄せる力は同い年の者としてはおおよそ相応しくない。唯一、口を塞ぐという行為に並みの人間らしさを見出すことができたが、この場合はむしろ厄介な事柄でしかない。
抵抗することも言葉を紡ぐこともできぬまま、仙蔵は薄暗い用具倉庫の中に引きずり込まれた。何をするつもりかと思考を巡らせたが、倉庫の中に入った途端、彼はあっさりと仙蔵を突き飛ばした。何から何まで予想外の行動に、仙蔵は受け身を取ることも適わず倒れこむ。体が痛い。小さな呻き声が漏れた。
「あっ、ごめん」
どのような非情な奴かと思ったら、仙蔵を引きずりこんだ張本人は意外なほど素直に謝罪の言葉を口にした。しかしその手は今まさに扉を閉めるところなのだ。年の割には落ち着いているとの評ではあったが、ここまで唐突で訳の分からない扱いをされるとなると、さすがの仙蔵も困惑しないわけにはいかなかった。
「一体何だというのだ」
訊きたいことは山ほどあったが、最初に零れたのはその問いであった。
薄暗い庫内で、少年の顔を見据える。少し睨むような顔つきになっていたかもしれない。問いかけられた相手はというと、くるりと丸い眼で仙蔵の顔を見返した。同い年の仙蔵よりも幼げな顔だ。何も考えてなさそうな顔と言ってもいい。
その口が、ぽかんと開かれた。
「お前、もしかしてい組の立花仙蔵?」
「……そうだが」
てっきり問いかけに答えてくれるものだと思ったが、彼の口から飛び出たのはまたまた意外で、且つ若干不快なものだった。
初めて言葉を交わしただけでなく、失礼千万を働いてくれた相手からの、お前、等というぞんざいな呼び方、あまつさえ呼び捨てされるだなどと。許容するには仙蔵はまだ幼く、寛大な性格というわけでもなかった。
明り取りから差す日の光に少年の顔が照らされている。
そういえば、と仙蔵は改めて彼を眺めまわした。丸い眼と大きな口、頬には何故か土がこびりついている。量の多い髪の毛は四方八方に飛び跳ね、お世辞にも手入れされているとは言い難い。学園に入って三月も経っていないのに、ところどころ制服が擦り切れている。如何にも活発な、元気だけが取り柄といった少年だ。
仙蔵は鼻を鳴らした。こんなのに有無も言わさず捕えられたのかと思うと、己の実力不足が憎くもあった。それと同じぐらいに、目の前の相手に不愉快さを感じていた。
こちらの問いには答えない上に、不作法極まりない呼び方をされる。理不尽な扱いは頭にくるが、かといってこれ以上関わっても碌なことがなさそうだ。湧き上がる苛立ちを押さえつけ、仙蔵は彼から目線を外した。ともかくさっさと外に出るとしよう、と歩みかけたところ、慌てた彼に腕を取られる。
「待ってよ」
「今度は何だ!」
いよいよ憤慨しかけて、半ば怒鳴るような声になってしまった。
しかし彼はたじろぐ事もなく、掴む腕に力を込める。年齢に見合わぬ強い力だ。思わず痛い、と言いかけて、仙蔵は急いで口を噤んだ。素直に口にするには悔しすぎる言葉だった。
代わりにありったけの反抗心を込めて彼の幼い顔を睨み付けた。
待てという割に、彼は二の句を告がなかった。いや、告げないのだろうか。小さな頭で何事か考え出したらしい彼の腕を思い切り振り払ってやりたいのに適わない事実が仙蔵の矜持を確実に傷つけていく。罵倒をしてやっても良かったが、負け犬の遠吠えというか、かなり間抜けな様になりそうだったので行動には移さない。微かに唇を噛みしめた。
薄暗い倉庫内で、時ばかりが徒に過ぎていく。引き留めるなら早く要件を言うなりなんなりすればいいのに、少年はまだ考え事の真っ最中らしい。掴まれた腕がどちらのものか分からぬ汗に濡れている。不快だ。早く解放して欲しい。
「……えっとさ」
ようやく絞り出された辿々しい声に、仙蔵は視線だけを返した。
「どうしたらいいと思う?」
「は?」
次いで出された台詞は情けないのに、驚くほど真剣でもあった。仙蔵は眉を顰めた。意味が分からない。初めから、何もかも。
唯一理解できたのは、彼が簡単には解放してくれないであろうということだった。
七松小平太。それが彼の名前だった。一年ろ組に在籍しているらしい。
無事に腕を放された後も、仙蔵は小平太と互いに顔を見合わせていた。
倉庫から出るには扉を開けなければならないが、その隙を彼が逃す筈はないし、仮に出られたとしても追ってこられれば勝ち目はなさそうだ。用具倉庫内の品を投げつけるか、或いは鈍器として殴りつけてもいいかもしれないが、失敗して逆上されれば本当に碌でもないことになりそうである。
いや、今だって相当碌でもないが。
仙蔵は深く息を吐いた。小平太が、いっそ幼気といってもいいかもしれない視線を寄越す。
「で、仙蔵はどうしたらいいと思うんだ?」
「どうしたらいいも何も……」
仙蔵はほとんど投げやりに返事をした。心の底からどうでも良かった。だが彼を納得させる有効な解決策を提示しなければ状況が変わらないことも分かっていた。
ゆっくりと辺りを見渡す。手裏剣やら苦無やら、まだ授業では習っていない品々やらが綺麗に整頓されている倉庫だ。先程は冷静さを欠いていた為に倉庫内の状況をほとんど把握していなかったが、成るほど、小平太の言う通り倉庫の片隅に備え付けられている棚が破壊されていた。
小平太は弱り切った顔で、訳を告白し続ける。
「用具委員の奴が二人とも風邪で休みでな。それで代わりに先生に言いつけられて、授業で使った用具を運んできたんだ」
「はあ」
「でも用具倉庫なんて初めて入ったから、それで……」
「ああ、うん」
仙蔵は息を吐いた。その先は聞かなくても大体分かる。初めて用具倉庫に足を踏み入れた彼は、その物珍しさにはしゃいでしまったのだろう。それでまあ色々と用具を弄くっている内、何かの拍子で棚を壊してしまったという訳だ。
小平太は下を向いて口を結んだ。真剣に困っている様子だった。
その姿が少しばかり可哀そうに思え――るはずもなく、仙蔵は半眼を作った。まるきり自業自得である。同情心などこれっぽっちも沸いてこない。
「君が取るべき行動など決まっているじゃないか」
告げると、小平太の口がぽかりと空いた。瞬きを幾度か返されて、それは何だ、と身を乗り出してくる。
期待にきらきらと瞳が輝いていて、仙蔵は微妙に体をのけ反らせた。
「素直に自分の過ちを先生に報告して、謝ればいいだろう」
途端、小平太の表情は失望したものになったので、仙蔵はむっと顔をしかめた。
確かに何の工夫もない、策でも何でもない行動ではあるが。誰でも思いつく、真っ当も真っ当の行為であろうが。しかしそれが一番良い道であるのもまた事実ではなかろうか。
当然、怒られ罰を受けるかもしれないが、許して貰えないなんて事はないだろう。学園に入って三月も経たぬ、一年生のしでかした事だ。仮にこの場を誤魔化し逃げられたところで、忍びのプロである教師には遅かれ早かればれるであろうし。
であるからして、不満げな顔をされる謂れはどこにもないのである。
その旨を説くように告げても、小平太の表情は変わらなかった。
「仙蔵は学年で一番成績良いって聞いたから、何か良い方法思いつくかと思ったんだがな……」
いつまでもどこまでも失礼な奴だ。本当に鈍器で殴りつけてやろうか。
仙蔵の不穏な心持など露知らず、小平太は尚も落胆していた。
「はあ、どうしよう。このままじゃ学園を追い出されるかもしれない……」
「それは後ろ向きすぎる発想じゃないか? 一応故意に壊したって訳でもなさそうだし、入学したての一年生だし、先生たちも鬼ではないんだ。許してくれるだろう」
「だって、次備品を壊したらただじゃおかないからな、ってこの前言われたばっかりだもん」
「……次?」
「うん。これで備品を壊すのは五度目なんだ」
「五……」
仙蔵は指を三つ折って、それから開いて、今度は五つ折った。学園に入って三月弱、対して、壊した備品は早五つ。数を確かめるようなその行為を小平太が不思議そうに見つめている。己でも馬鹿みたいではあったが、それほど驚き呆れ果てていた。
というか注意が為されていたならば、どうして軽率な行動を改めようとしないのだ。
今日一日だけで何度思ったかしれないが、目の前の彼が理解し難い、珍妙な生き物のように感じられてきた。溜息すら枯れて出てこない。話して分かり合うのは無理ではなかろうか、と心の中で散々な事を思ってみたりもした。
「とにかく、だ。私にはこれ以外の道は思いつかない。どうしても別の策を、というのなら他を当たってくれ」
懇意にしている悪知恵の働く上級生にでも相談すればいいのだ。入学したての一年生にそんな相手が居ればの話だが。
役目は終わったと歩みだそうとしたところ、またしても腕を取られた。
うんざりだ、と仙蔵は思った。忘れようと努めていた怒りがまた身に宿ってくる。
口を開きかけて、ぎょっとした。こちらを見やる眼に涙が溜まっている。
「お、おい……」
「お願いだ、助けてくれ」
「だ、だからだな……」
「学園を追い出されるのは嫌なんだ」
大きな瞳からぼろりと涙が零れていった。同じ男児として情けなくみっともない、と思いながらも、その涙は仙蔵を戸惑わせるのに十分な効力を発揮していた。
何故だか捨て置けない。情に絆されるには、二人の出会い方は最悪すぎた。それなのに。
枯れたはずの溜息が出た。深く大きく、身に降りかかった厄災を吐き出すように。
「分かった」
小平太が目を見張る。仙蔵の言葉を辿ろうとして、潤む瞳に失敗したようだ。頬を流れる水滴を拭うこともせずに、仙蔵の腕ではなく、手を、それも両手をぎゅうと握った。
相変わらず力は強いけれど、不思議と痛くはない。感激を表すように上下に振った。
「ありがとう」
みっともなく涙を流しながら、小平太は初めて溢れるような笑顔を仙蔵へと向けた。快活な少年らしい、明るく逞しい笑顔だった。
その笑顔を前にして仙蔵が思ったことは、どうにも言葉に表しにくい。
只、悪い気分ではなかった、ような気がする。それと顔を逸らしてはいけないような気も。
薄暗い用具倉庫で、二人はしばし見つめあっていた。
仙蔵は彼に導かれるままに足を踏み入れ、それから心底呆れた面持ちで倉庫内を見つめた。
壁に不格好な穴が空いている。あちらこちらに手裏剣やら苦無やらの細々したものが散っており、棚どころか、倉庫内の半数近くが無残な有様だ。かの用具委員長がこの光景を見たら怒りのあまり泡食って昏倒するんじゃなかろうか。作法道具が仕舞われている場所でなくて良かった。でなければ怒りのあまり首を締め上げるだけじゃ済まないところだ。
「で、どうするんだこれ。さすがに不味いだろ」
「不味いよなー、さすがになー」
「備品には相当高価なものもあるはずだが」
「だよなあ。どうしようかなあ」
「体育委員会の予算でも回してやったらどうだ。そうしたら留三郎の溜飲も少しは下がるだろう」
「何だと。そんなことができるか」
仙蔵は嘆息して、心底留三郎に同情した。
「今度こそ本当に退学になるんじゃないのか」
「何だよ。冷たいな、仙蔵は」
「そりゃどうも」
淡々と返せば、小平太が一寸不満そうに唇を尖らせる。が、それも一瞬の事で、すぐにううんと唸りだした。細かいことを気にしない彼には珍しく思い悩んでいるらしい。まあこの光景は全然細かいことでも小さいことでもないが。
様子など見に来なければ良かった、と今更ながら後悔した。突然の破壊音に気を引かれてここまで足を運んだところ、慌てて走ってきた彼と鉢合わせしてしまったのだ。小平太はあー、と焦ったような諦めたような声を出しつつ、先に用具倉庫へと入りかけたが、思いついたように振り返って、仙蔵の方へ手招きしたのだった。
小平太は少しでも無事な品はないかと目を凝らしている。仙蔵は腕を組んでその場に立っていた。手伝えよ、等と言われるかと思ったが、そういうことは全然期待されていないらしい。
彼はしゃがみ込み、瓦礫と化した棚の隙間から細かな品物を取り出していく。ぞんざいではないが丁寧でもない。何となく、初めて会った時の事を思い出してしまう。無理やりに倉庫内に引きずり込まれ放り出された、あの時の己の扱いに比べれば幾分かマシか。
しばし彼の行いを黙って見下ろしていたが、あまりに時間を無駄にしすぎている気がしたので立ち去ることにした。
だがそれを一足先に察知したらしい小平太は、素早く振り返った。
薄暗い倉庫内で、丸い眼が瞬いた。涙はもちろん溢れない。
「どうしたら良いと思う?」
「知るか」
間髪入れず答えると、小平太が立ち上がった。仙蔵は只々彼を見つめる。彼が顔を近づけた。頬には何故か土がこびりついている。
あれから何年も経ち、最終学年になったというのに、彼は時々、あの時のような幼さを垣間見せる。
けれどそれは決して同一のものではない。同一であれば、彼の唇が仙蔵に押しつけられるなんてことはないはずだろう。
唐突な、色気もへったくれもない口付けを終えれば、小平太は再び飽きずに唸りだした。それでまた、馬鹿みたいに仙蔵へどうしたら良いのかなんて尋ねるのだ。
対する仙蔵の答えは同じだった。素っ気ない、と小平太は言った。
「昔はあんなに優しかったのに」
「記憶違いではないか」
「一緒に先生に謝りに行って、必死に私を庇ってくれたのに」
「覚えてないな」
「仙蔵が冷たい」
「自分のしでかした事だ、尻拭いは自分でしろ」
「……退学になったら?」
「自業自得だろう」
仙蔵は短く息を吐いた。それからもう構っていられぬと小平太にも庫内にも背を向けた。軋む扉を開けても小平太は追ってこなかった。
本当に、何度同じ過ちを繰り返すつもりなのか。先程の行為といい、相も変わらず、彼は仙蔵にとって得体の知れない生き物だ。それでも大分御しやすくなってきたような気がするのは、己の努力の賜物だろうか。
彼との関係もかなり変わってしまった。良きにしろ悪きにしろ。
あの時は一介の同級生に過ぎなかった。しかもかなり最悪な部類の。できれば二度と関わり合いになりたくない、と思うほどには。
どうしてこうなったのだろうか、とふと思うことがある。そうすると、必ずといっていいほど彼の丸い目から溢れた涙と、最早珍しくも何ともない彼の眩しげな笑みが思い返されるのであった。
落ちかけの日が当たりを照らし出している。仙蔵は用具倉庫を振り返った。外壁に砲弾がのめり込んでいる。それも一つではない。余程の衝撃があの倉庫を襲ったのだろう。響いた音も相当なものだったし、今は幸い気づかれていないが、ばれるのは時間の問題だ。
仙蔵は見なかったことにして、再び背を向けて歩みだした。それが今の仙蔵が持ち得る、精一杯の優しさであった。
激怒した用具委員長や、道具管理主任辺りに問い詰められればあっさり口を割るであろう。それぐらいの優しさであった。
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