ぬばたまの髪が視界の端に舞い踊った。
 目で追えばその男は地上からつき出た大岩、つまりは一等景色が良く見える場所へと腰掛けて、酒の入った瓢箪を傾けている。
 口を開きはしないものの、こちらへ来いと言外な態度だ。
 拒む理由は特になく、むしろ誘いに乗る気は満々だったので、大人しく彼の隣へと腰掛けた。
 高く聳えた岩は男二人とその間に瓢箪を乗せてもまだ余裕のある大きさだ。すぐ下は崖になっていて、一度体制を崩せば崖下に広がる闇の中へ飲み込まれるだろう。
 だが仙蔵は意に介した様子なく、いつになく上機嫌で盃に注いだ酒を啜っている。
 夜の黒に浮かび上がる月がその横顔を照らしていた。今夜は満月だ。

「晩酌するには打ってつけの夜だな」
「なあ、そんなことより、わたしの分はどこにあるんだ」

 見たところ盃は仙蔵の分しか見当たらない。まさか月見に誘っておいて丸々一人で飲み干すわけでもあるまい。
 懐にでも隠し持っているのか。それとも回し飲みをするつもりかと見つめれば、仙蔵はさも当然のように口を開いた。

「お前の分などない」
「何?」
「今夜は私の相手だけしろと、そう伝えた筈だが」

 確かに昼間そう言われたが、思い違いでなければその台詞の前に「良い酒が入ったから」という一文も加えられていた筈である。ならば意味としては「酒を酌み交わそう」と解釈するのが通常ではないだろうか。
 だというのに待ち合わせ場所に来てみれば話は違うし、見せびらかすように酒を飲まれては不満に眉根も寄ろうというものだ。
 むっと口を曲げても、仙蔵は取り合おうとしない。
 それどころか、

「ほら、黙ってないで酌でもしてくれ」

 等といけしゃあしゃあである。
 いよいよ頭にきて、盃を奪い取ろうと思ったが、それより先に鎮座していた瓢箪を押し付けられた。  渋々酒を注ぎいれると、彼の機嫌は益々上昇するようだった。

「つくづく良い晩だ」

 小平太を扱き使うことに愉しみを覚えている風でもある。
 仙蔵は良くとも、小平太にしれみればちっとも嬉しいことではない。彼の機嫌が上がるに従って、小平太の方は下降していくばかりだ。
 いっそ瓢箪の口から直に流し込んでしまおうか。過ぎった考えは中々楽しく思えた。早速実行しようと手の内を持ち上げ傾ける。
 だが仙蔵の手はそれよりも早かった。小平太の手首を引き寄せ、いつの間にか空にしていた盃に無理やり酒を注ぎいれた。

「お前の分などないと言ったろう」

 無慈悲に言い切って、己ばかり愉しんでいる。小平太の気が長くないとよく知っている筈なのに。

「こんなに意地の悪い奴だと思わなかった」

 悪態にも似た愚痴を吐き出せば、何がそんなに面白いのか彼はからからと笑った。

「人が好い男だとでも思っていたか」
「からかうつもりならわたしは帰るぞ!」
「まあ待て」

 酒に染めた頬が迫ったと思ったら口を吸われていたので、あやうく瓢箪を滑り落とすところだった。
 一方仙蔵は手にしたものを放すどころか、堂々とした振る舞いをみせる。
 こんな形で引き留めようとするなんて、本当に、心底意地の悪い男だと小平太は思ったが、己から口を離すつもりはなかった。
 彼と、慰み程度の酒とをしっかり味わっても尚、小平太は唇を尖らせた。だが浮かしかけた腰は結局落ち着いた。
 また酌をしろと申しつけられて、不服ながらも瓢箪を傾ける。
 こうなったら早く減らしてしまおう。その先への期待が俄かに高まっていた。
 小平太の考えを知ってか知らずか、仙蔵は愉快そうに風流を気取っている。
 何杯目かの酒に酔い始めているのかもしれない。口元が緩みっぱなしだ。
 よく思い返してみれば、彼の酔った姿というのを見たことがなかったように思う。
 先日、六年の何人かで酒盛りをした。
 面子には仙蔵も居たが、正直気にも留めていなかった。というのも、そういう集まりの折、誰よりも騒いで飲んで、真っ先に沈んでしまうのが他ならぬ小平太なのである。
 もちろん教師陣にばれては不味いから、節度を保った騒ぎ方をする。量も程々と気を付けるし、酔いが回りに回って理性などが吹っ飛びそうになると、すかさず長次辺りが眠りに誘ってくれるのだ。
 要するに気絶させて貰うということだが、そのまま寝過ごして、気付けば障子越しに朝日が差し込んでいたりするのは酒盛りの後のお約束だった。
 といった訳で、仙蔵はおろか、他の面々の酔っ払った姿もろくに覚えてなんかいやしない。
 文次郎はほとんど飲まないし(飲めないわけではないらしいが)、長次は輪から少し離れたところでちびちびと静かに口をつけている。
 伊作も酒の回りが早いからと一、二杯をゆっくり飲んでいるし、留三郎は顔色も素振りもあまり変わらない。  知っているのは精々そのくらいまでである。そこから先の記憶は大体ない。
 ううむと小平太は心中で唸った。仙蔵の酔った姿を見るのも偶にはいいかもしれないと興味を抱き始めていた。
 この様子だと泣き上戸、怒り上戸といった面倒くさい性質ではないらしい。笑い上戸なら、先の二つより断然害は少ない。
 考えを巡らせる内にも瓢箪はどんどん軽くなっていく。少しだけ左右に揺らせば、頼りない音を出した。
 そろそろ終わりだと仙蔵の横顔を見つめれば、その頬が思ったより酒に蝕まれている事実を知った。
 今ならさして苦労もなく組み敷けるだろう。高まっていた期待は確信に変わりつつあった。
 仙蔵は盃を小平太に突き出す。
 小平太は今日初めて、嫌がる素振りなく酒を注いでやった。
 美しい晩だ。月光に照らされながらするのも悪くはない。散々我慢してやった分を今から取り返すのだ。
 さて手始めにと彼の手首を取ろうとしたところ、思ったより強い力で振り払われ、逆に手首を掴まれた。
 ここまできて反故にするわけじゃあるまいなと、してもいない約束に逆上しそうになったが、そうではなかった。
 小平太が行おうとした事を、仙蔵がそっくりそのままやってみせたのだ。
 岩場から引き下ろされる。草原で組み敷かれると、先程と同じように口付られた。たっぷりと酒の染みついた体が鼻について不快に感じられた。だがそれ以上の感情が、小平太の脳裏を支配しつつあるのも事実だった。
 仙蔵は一旦離れて、酒と唾液とに濡れた唇をこれ見よがしに舐めてみせた。それからまた、顔を近づけた。
 目を閉じる。彼がそのつもりなら昼間言われた通り相手をしてやろう。
 手にしていたものはいつの間にかなくなっていた。遥か崖下から微かに音がした。
 滑り落としてしまったかもしれないが、さほどの問題はなさそうだった。
 折角の月光を彼が背負う形になっていることの方がよほど気にかかる。しかし文句は言うまい。
 ようやく小平太にとっても良い晩になりそうな気配なのだ。