障子を開ける音に振り向くと、小平太は人差し指を口元に当て、静かにするよう合図を送ってきた。おおよそ似合わぬ仕草であるが、本人は真剣そのものである。しばらく外の様子を伺うようにしていたが、やがて安堵のため息を吐き、仙蔵に笑いかけた。

「勉強の邪魔して悪かったな。とりあえず一時は安心だ」
「誰かに追われているのか」
「ちょっと文次郎と留三郎を怒らせてしまったらしい。あいつら仲悪い割に組むと鬼に金棒状態だぞ。おかげで逃げる時に何人か轢いてしまった」
「お前が言うと冗談に聞こえんぞ」
「冗談じゃないからな」

 豪快に笑う小平太に仙蔵は言葉を返すのも面倒くさくなり、相槌すらも打たずに背を向けた。胡乱げな灯に照らされた書に再び目を通し始めると、重くて熱い体が背中にのしかかる。少々甘ったるい、妙な香りが鼻についた。手入れのなっていない髪の先から幾らか水粒が滴って、仙蔵の肩を僅かに濡らす。よく見れば彼は風呂上りのようであった。

「おい、お前は逃亡中じゃあなかったか」
「あいつらもまさか追っ手の部屋に逃げ込んでいるなんて思わんだろう。しばらくは気づかないさ」

 悠長他ならない台詞だが、一応逃亡者の自覚も少しはあるようで、囁くように耳元に口を寄せる。
 手は早急で、もう胸元辺りをまさぐり始めた。仙蔵が了承するかどうかなど知ったこっちゃないらしい。いささか眉をひそめたが、特に抵抗しようとも思わないのでまあいいかと適当に力を抜いた。
 風もないのに頼りなげに灯が揺れる。肌を伝う指が熱い。
 食いつかれるように吸われた首筋からじりじりとした痛みが湧き上がった。
 双方とも声らしい声はなく、息の交じり合う音が溶けるのみ。未だ姿を見せぬ追跡者を気にするというよりは、行為に没頭しているという方が正しい。
 重くのしかかっていたはずの小平太に、いつの間にか仙蔵の方が身を預けていた。無理やり振り向かされ唇を合わせられる。ついでのような強引な口付けだったので、多少正確な位置からずれてしまった。それでも気にせず開いた隙間から入れられた舌が、口内で好き勝手躍動している。
 帯は当の昔に解かれていた。適当に開いた両足の間に無骨な手が忍び入ってくる。
 離れた口から漏れる息はいよいよ熱く、ゆらりと灯を揺らした。
 そこで小平太が動きを止めた。
 澄ました耳に獣の遠吠えのような声が聞こえてくる。  加えて、互いの息遣いに混じり、騒々しい音が近づいていた。
 よく聞けばそれは人の、それも複数人の足音だった。獣の遠吠えのように聞こえたのは、憤怒の叫び声だ。
 追っ手、か。
 そうと分かれば互いに行動は早かった。襟を合わせ帯を締め、息は荒いし体も熱いが、格好だけみれば何事もなかったように見える。
 小平太は未練ありげ――というより昂ぶる体をありったけの力で抑えているようであったが、最中に飛び込まれてもかなわない。

「続きはまた後でだな」
「お前が生きていたらの話だが」

 荒々しい足音が今にもこの部屋に踏み込まんとしているようだ。小平太はにかっと笑ったが、特に何を言うでもなく、さっさと飛び上がり天井板の向こうへと姿を消した。それから少し遅れて、けたたましく戸を開ける音。文次郎と留三郎――それと何故か伊作の姿がある。

「仙蔵、小平太はどこだ」
「どうして私に問う」
「この部屋、薬の匂いがするんだ」

 言ったのは伊作である。よく見ると彼はよれよれの風体で、手に抱えている救急箱も片方の留具が外れていた。仙蔵は小平太の台詞を思い出した――あいつ本当に人轢いてたのか。
 にしても薬の匂いとは。小平太の髪から嗅ぎ慣れぬ甘ったるい匂いがしていたが、轢いたときにでも被っていたのだろう。匂いを辿ってくるとは鋭い嗅覚だが、それ程腹を立てているらしい。
 やれやれと肩をすくめた。さすがの小平太も、同級生三人――伊作が足を引っ張る可能性は多少あるとしても、逃げ切るのは難しいかもしれない。
 何にせよ、己がやるべきことは一つだけだ。
 仙蔵はおもむろに人差し指を一本立てた。

「上」

 三人が一斉に天井を見上げる。伊作は鼻をひくつかせて、確かに上から薬の匂いがすると呟いた。
 おれの部屋に逃げ込むとはいい度胸だと益々青筋を浮かす文次郎と、最早口を動かすのも時間の無駄だと眉を吊り上げる留三郎。二人は素早く天井へと飛び移り、板の向こうへ姿を消した。伊作も遅れつつ、二人の後を追っていく。
 仙蔵はしばらく天井を仰いだままでいた。嵐の過ぎた部屋は酷く静かだ。
 果たして小平太は追っ手を振り切り、またこの部屋に戻ってくることができるだろうか。己がどちらを望んでいるのかは置いといて、馬鹿みたいな体力を持つ小平太と、鬼のようにしつこく追跡する三人のどちらに軍配があがるのか、興味が湧かないこともないが、これ以上関わりあうのも面倒だ。
 さてさてどうなることやら。逃亡の結末を思いながら、仙蔵は軽く伸びをした。