闇が歪んだ。
留三郎は舌を鳴らした。こちらの力量を分かりきった上で垂れ流す、わざとらしい、いやらしい気配だ。
まったく、面白くない。だがどうにもできない。苛立ちを押し隠しながら視線を流せば、微かな笑い声が聞こえた。
「何か用ですか」
「ううん、特に」
「そうですか。では」
「おや、随分あっさり」
何と言われようが彼と必要以上に関わるつもりはなかった。
そのまま長屋へ向かおうと思ったが、ねえ、と声をかけられて足を止めた。渋々といった風情で振り返り、闇を見つめる。
「君は好戦的だと聞いたのだけれど」
誰に聞いたんだとの問いはするだけ無駄だろう。留三郎は黙って耳を傾けた。
「潮江君や七松君と違って私には突っかかってこないよね」
「……分のない相手に勝負を挑むほど無謀ではないつもりです」
「ふうん」
「訊きたいのはそれだけですか」
「そうだね。そろそろ帰らねば部下たちが煩いだろうし。伊作君に宜しく伝えておいてくれ」
「……伊作に?」
「そう。また来るからと」
思いの外柔らかな声音が頭上から降ってくる。それが最後だった。気配はあっという間に立ち消え、夜の静けさが舞い戻る。
もう引き留める者はいない。しかし留三郎は足を踏み出そうとはしなかった。
また来るから、だと。
曲者、雑渡昆奈門が保健委員会、とりわけ伊作をいたく気に入っているというのは知っていた。
小松田の目を盗んで学園に侵入し、決まって医務室を訪れ茶を飲んだり呑気に談笑などするらしい。許せぬことだと憤っている文次郎を何度も目にした。
馬鹿な、と留三郎は思っていた。懲りずに戦いを挑む文次郎や小平太やらに対してである。分が悪いどころの話ではない。学園の教師ですら互角、あるいは上回るであろう男相手に、万に一つも勝ち目があるとでも思っているのか、と。
だが、根本では……。
非常に癪な話ではあるが、根本では留三郎も文次郎と同じ気持ちなのだ。彼らと違うのは、仕方ないと諦めている部分が大きいということか。触らぬ神に何とやらだ。忍びとしては正しい選択といえるだろう。
分かっている。分かっているのに。
傍の木を拳で打ち付けた。衝撃で木の葉が振り落ちる。遠くで鳥が戦慄いた。
春の夜は肌寒い程なのに、腹の中だけが燃えるように熱い。
「……っんで、こんな苛つくんだよ」
どうにもならない。ならないのだ。差は歴然としている。留三郎とて我が身が可愛い。ならば煮え返る腸など。熱く湧き上がる感情など、押し隠す他ないだろう。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、文次郎や小平太のような無鉄砲さを羨むというのか。それこそ、馬鹿らしい。
細く息を吐いた。春風の冷たさが徐々に冷静さを取り戻させてくれた。
拳を開く。力任せに叩いたものだから鈍く痛んでいた。
長屋に帰る前に医務室に寄ろうか。もちろん先程の言葉を伝える為ではない。伝えるつもりなど欠片もなかった。柔らかい、僅かに優しささえ滲む声音で放たれた言葉なぞ。
何もかも思い通りになると思うなよ。
気にくわぬ姿を思い浮かべながら、留三郎は医務室へ足を向けた。
塀の上から地に降り立つと、すかさず尊奈門が駆け寄ってきた。
おや、と昆奈門は笑った。待っていてくれたの、とからかうような声音で問いかける。
「ええ、待っていましたとも。どうせ忍術学園に行っていたのでしょう。いい加減にして下さい」
「偶には息抜きさせてくれてもいいだろう」
「息抜きしすぎです!」
この前も、その前も……と小言を続ける部下を適当にいなす。春の夜、薄く細い月を見上げながら、わざとゆっくりと歩を進めた。後ろに着く尊奈門はまだぶつぶつと呟いている。
「あまり頻繁だと、終いには保健委員長の彼に迷惑がられてしまいますよ」
「それは一寸傷つくなあ」
「本当にそう思っているんですか」
「思っているよ。ま、あの子には既に疎まれているんだろうけれどねえ」
「あの子って、組頭によく突っかかってくる六年生の?」
「いいや、別の子」
「それなら何の問題もありませんね。……突っかかってこられても問題はないでしょうけれど」
「まあ、今後は分からないが」
「……挑発でもしてきたんですか?」
はっきりと呆れの滲んだ声に、ふふふと笑った。
冷静さを装った彼の、隠しきれぬ激情を思い出したのだ。
別れ際、こちらを見上げる瞳が確かに一瞬、険を増した。勝てぬ勝負は挑まぬ、関わり合いにはなりたくないといった態度の彼が、他愛もない、たった一言で心を揺らした。若い、それ以上に思うのは。
「つくづく大した子だよ」
「え、誰の事です」
不思議そうな尊奈門の問いには答えない。
まったく、彼の傍にいれば退屈することなどなさそうだ。
背後の部下には決して気取られぬよう、心底楽しげな笑みを浮かべた。
次はいつ息抜きに行こうかと。
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