悟られぬように気配を消すことなど簡単なことの筈だ。
 しかし彼はそうしない。微かだが、とてもわざとらしい気配を天井裏から感じて、伊作は苦笑した。

「今日は何の用ですか」
「あれ、気付いてた」
「よく言いますよ」

 手元に視線を落としたままの伊作に、背後に飛び降りた曲者はどこか愉快そうな口振りだった。

「用は特にないんだけれどね」
「そうですか。ついでですからお茶でも飲んでいかれます?」
「お言葉に甘えて」

 男が静かに腰を下ろした。少し離れた床には既に急須が置かれている。もう大分温いですがいいですか、と伊作は断って、彼が持参していた湯呑を受け取る。淹れたお茶は湯気も立っていないが、彼にはその方が都合がいいだろう。半分ほどに減っていた自分のお茶も淹れたして、一口啜った。

「今日は一人かい」
「ええ、当番はぼく一人です」
「それはちょっと残念だねえ」

 と手持無沙汰に両手を上げる。いつもなら伏木蔵を膝に乗せているところで、本当に残念そうな様子だった。

「暇なら薬草でも煎じてみますか」
「あんまり趣味じゃないから遠慮しておこう。っていうか君はよく曲者にそんな呑気なこと勧められるね」

 呆れた口振りに思わず頬を掻く。指に染みた薬がつんと鼻をついた。彼が来る前に一度、煎じていた薬を溢してしまったのだ。
 ふと思い至ったように、男は自身の懐をごそごそと探った。

「そうだ、お土産に茶菓子を持ってきたんだけど要る?」
「頂いていいんですか」
「お互い様でしょう。ま、例によってお煎餅なわけだけれど」
「ありがとうございます。すごく美味しいって下級生たちからも評判なんですよ」
「うちの部下お墨付きだからね」

 煎餅の包みを受け取り、中身を確かめた。菓子の香が薬の匂いと混じってしまうのがいささか惜しいところではあるが、今となってはよく知っているその味は極上だ。明日保健委員の会合の時にでも振る舞おうと、機嫌良く棚へと仕舞った。
 男は愉しそうに伊作の背を見つめていた。それでいて、目を細め何事かを探ってもいた。医務室に忍び込む度、彼は伊作という人間を面白そうに眺めていた。伊作本人は今一、気付いているのかどうか定かではなかったが。

「君は相変わらず危機感が足りてないようだね」
「はい?」

 伊作が上質な菓子に胸躍らせながら振り返ると、男は呆れたように棚を指差した。

「土産に毒が入っているとは考えないのかい」
「あなたがぼくたちに毒を盛る必要性は」
「例えばの話だよ。いや、そうとも言い切れない。毒入りの可能性について、君は考えないばかりか、下級生に振る舞おうとさえしている」

 その場合、被害は甚大だ。毒の程度によっては死者も出るかもしれない。慣れ合いの果てに警戒心は埋没してしまったか。
 伊作は大きな目を瞬かせた。それから首を傾げた。

「でも現に、毒は入っていないようですし」
「……どうして言い切れる」
「匂いに不審なところはないし、表面に薬が塗られている風でもなかった。それに、齧れば分かりますよ」
「無味無臭ということもありうるだろう」
「あの、雑渡さん」
「何だ」
「そういうのをわざわざ訊かれること自体が、毒入りじゃないという証明になりませんか」
「……君は」

 言葉は途切れ、男は片目を瞑り小さく息を吐いたようだった。
 包帯に隠されていても呆れ顔なのが分かるが、伊作との会話の中ではさほど珍しい表情ではなかった。
 彼は湯呑を静かに置いて立ち上がった。いつの間にかすっかり飲み干されている。

「今夜はこれで帰るとしよう」
「あ、湯呑は……」
「置いていくよ。また近いうちに寄るだろうから」
「あんまり頻繁にいらっしゃると、目をつけられますよ」
「もうつけられてると思うけれどねえ」

 ふふふと愉快そうに笑って障子戸を開ける。別れの挨拶を言う間もなく曲者は闇に溶け消えた。
 開けっ放しの戸を閉めて、もうすっかり入り浸りだなあ、と割と特異な状況を思い返せば、伊作といえども苦笑してしまう。
 それにしても毎度毎度、突拍子のない質問をする人だ。
 大抵の毒なら嗅ぎ分け見分ける自信はあった。だが無味無臭、いつか新野が作ったような精巧な毒が盛られていた場合でも。

「毒味くらいはしているんだけれど」

 無論、自分の舌で確かめるような真似はしない。確かめてくれる生物は天井裏をいくらでも駆け回っているのだ。
 曲者とはいえ客人の前で確認するのは失礼だと気を遣っていたのだが、あの表情から察するに、どうやらかなり誤解を招いてしまったみたいだった。
 何度か味方になってくれたとはいえ、曲者であることには変わりがない。
 あれじゃあまるで……。
 呆れられてもしょうがないなと苦く思う。信用、しているだなんて。さすがにそれはどうなんだろう。
 今度訪ねてきたときに誤解を解かなければ、当然のようにそう思って、彼が残していった湯呑を手に取った。