授業からくる疲労によって重くなった肩を、とんとんと叩きながら藤内は食堂へと足を踏みいれる。 お昼なので食堂は沸きかえっていた。とはいってもほとんどが一年や二年、下級生ばかりだ。 同級生は既に昼食を済ませてしまったのだろう。上級生はというと、授業が長引いているのか姿を見受けられず、藤内は少しだけほっとした。 上級生――特に五、六年生あたりと昼食が一緒になると、何となく落ち着かない雰囲気になってしまうのだ。これは藤内だけではなく、ほとんどの三年生に言えることなのだろうけど。 賑やかな下級生たちの間を縫って、どこか適当な場所はないだろうかと辺りを見回す。 すると一つだけ、場にそぐわない暗い雰囲気を振り撒く机があった。窓際の一番奥の机だ。そこだけまるで存在しないかのようで、下級生たちは一様にそこへ近づこうとはしていなかった。 しかして元凶は机ではなく、そこに一人で座る三年い組の孫兵である。 窓を背にしながら机に顎を乗せて、辛気臭い顔でため息を吐いている彼は、目の前の定食を食べるでもなくただただぐったりとしているだけ。 料理に手をつけない者にはおばちゃんへの叱咤が待っているのだが、下級生の群れでごった返している為、忙しそうにしている彼女は気づいていないようだ。 正直藤内も下級生たちと同じく孫兵の傍に寄りたくなかったのだが、空いている机がそこしかないため、仕方なしに定食を受け取って孫兵の向かいへ座った。離れたところに座るのも余所余所しい気がしたためである。 けれど声を掛けるには至らず、微妙に気まずい空気が流れた。孫兵は藤内に気づいているのかいないのか、直も溜息を吐いている。 とりあえず藤内は湯呑みに手を伸ばし、気まずさを振り払うようにずずっと飲み干した。 やっぱり冷えた体にはお茶が一番だなあと思いながら、ちらりと正面に座る孫兵を盗み見る。 実は孫兵の元気がないのは今日が初めてではなかった。冬は毎年こうなのだ、彼は。同級生ならば皆知っていることである。 原因は彼の首。 常ならばそこは彼の溺愛するジュンコという毒蛇が巻きついているはずなのである。けれども今は冬。ジュンコを始め、彼の愛する生物たちの大半が冬眠に入る時期である。 習性なのだからしょうがないことだと彼も分かっている(はず)なのだが、理解していてもやはり孫兵は気を落としてしまうらしい。 溜息を吐き続けている彼の目の前にある定食は、もう温かさを失っていて湯気もでない。 藤内は心配になってきた。下級生たちも適当な机に腰を下ろして落ち着いてきた頃だ。いつ食堂のおばちゃんが孫兵の様子に気づくか知れない。一口も箸をつけてないなんてことがばれたらどんな修羅場になることか。考えるだけで恐ろしい。 「おい、孫兵」 こっそりと声を掛けてみた。孫兵の様子に変わりは無い。もう一回声を掛け、前髪をちょいと引っ張る。 そこでやっと孫兵も気づいたようだ。陰鬱そうに曇る顔を机から気だるそうに上げて、ぼんやりと藤内を見、一言。 「何だ、いたのか」 「いたのかはないだろ。おい、食欲がないのは分かるけど、食べないとおばちゃんに怒鳴られるぞ」 「……お前食べてくれ」 「こんなに食えるわけないだろっ」 何とか声を荒らげないように、こそこそと呟く。 幸いにも下級生たちの話し声で、二人の言葉はおばちゃんに届く前に掻き消えているらしい。しかし安心はできないぞと、孫兵に定食を突き出す。 「ほら」 「……ん」 もそもそと箸を持ち定食に手をつけようとする孫兵だが、ご飯をすくう前にまた一つ溜息。どんよりと暗い空気が増して、この机に座ったことを藤内は後悔していた。 けれど机に座ったという事実は消せないし、同級生をこのままにもしておけない。 とりあえず孫兵を置いといて、急いで自分の飯を口に入れる。熱い味噌汁に苦戦しながらも、一気に飲み込んで定食を片付けた。 その後まだ定食を前に腑抜けのようになっている孫兵の手から箸を奪って、冷え切った飯をすくう。そして半開きになっている孫兵の口に無理やり押し込んだ。 突然のことに孫兵は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに口を動かして飲み込んだ。すかさず藤内はまた飯をすくって孫兵の口へと移す。 それを延々と繰り返した結果、丸々残っていた定食は見事飯粒一つ残さずに消費されつくした。 これでおばちゃんに怒られなくて済むだろうと思いながら同時に、はてどうしてぼくがこんなに心配する必要があるのかと考え込む。怒鳴られるのは孫兵だし、自分には関係ないはずなのだが。 けれど寒さに頭も凍っているのか、特に深く考えずに安堵したまま藤内は孫兵の皿を片付けた。笑顔のおばちゃんに皿を渡してお茶のお代わりを貰う。ついでに孫兵の分も。 いつの間にか下級生の数も大分減っていて、食堂の賑わいは影を潜めていた。 もうそろそろ上級生たちがやってくるかもしれないと思い立ち、孫兵の座る机へと向かう。静かにお茶を置いて、孫兵へと薦めた。 「寒いときはお茶が一番だぞ」 「うん……相変わらず」 「え?」 「爺くさいな、藤内」 「お前なっ」 孫兵の声に少しだけ、ほんの少しだけ覇気が戻っている。怒鳴りながらも藤内は心に静かな嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。 白い湯気が立ち上って、今までの気まずい空気を和やかに変化させていく。熱いお茶を飲み干すと、疲労し、冷えた体に本来の体温が戻ってくる。 目の前の同級生は爺くさいと言うけれど、やっぱり冬の日にはお茶が一番だと藤内はしみじみ思った。 「ああ」 唐突に。二つのお茶から上る湯気の向こう、孫兵が感慨深げな声を上げた。 「お茶は、いいものだな」 「そうだろ」 笑って言うと、お茶を啜る音が聞こえてきた。その後机に湯呑みを置く音。お茶の無くなった湯呑みから余韻のように出る湯気も、徐々に徐々に消えようとしている。 煙の向こうから姿を現した孫兵はわざわざ振り返り、窓を眺めていた。 藤内が窓の外へと瞳を移すと同時に、食堂に僅か残っていた下級生の一人がやけにはしゃいだ声で「雪だ」と叫んだ。 下級生がはしゃぐのも無理はない。それは綺麗な光景だった。ぽつぽつと控えめに降る細雪が、舞い踊るかのように窓の外を横切っていく。 「冬は」 見惚れていると、振り向きながら窓を眺めていた孫兵の白い顔がゆっくりと藤内に向けられた。小さく開いたままの唇が雪のように小さく、控えめに言葉を紡いだ。 「永い、とてつもなく永いものだ。ひたすら春を待つぼくには」 春を待つ。 愛しいものを一時的にとはいえ、失う痛みというのはどれ程のものだというのだろうか。残念ながら藤内には、それほどまでに切実な孫兵の心のうちは分からなかった。 一瞬間を置いて、孫兵が呟く。 「だけど。冬の間、お前とこうしてお茶を飲めたなら少しだけ、気分が晴れるかもしれない」 藤内に向けられたのは笑みではなかった。けれど決して無表情ではなく、何と言うべきか、そう、まるで。 食堂の入り口の方でがやがやと音がする。見ると上級生たちが汗だくで食堂へと足を踏み入れるところだった。 はっとして見回すともう下級生の姿は見当たらない。喋っているうちに相当時間が経っていたようだ。孫兵が立ち上がり、藤内の分の湯呑みともども手に取る。 「そろそろ行くか」 「あ、ああ」 こっくりと頷いて、上級生たちとぶつからぬよう器用に人波の合間をくぐる。孫兵が湯呑みをおばちゃんに渡したのを見届け、やっとの思いで上級生たちの独壇場となりそうな食堂を抜け出した。 食堂とは比にならないほど廊下は冷えており、氷柱でもできそうな勢いだと藤内は思った。 隣の孫兵も寒そうに腕を組んでいる。藤内も孫兵に倣うように腕を組んで、ひんやりとした床につま先を下ろした。 ふと窓を見てみる。 ちらほらと儚げに降っていた細雪はもう牡丹のように重く、しっとりと地面へと向かっていた。この分だと明日は結構積もるかもしれない、と何か少しだけ愉快な気持ちになった。 「明日、積もるかな」 「そうだな……この様子だと……あっ、しまった!」 隣で藤内と一緒に窓の外を通り過ぎる牡丹雪を眺めていた孫兵だったが、食堂での落ち込んだ様子はどこへやら、ジュンコたちが冬眠している飼育小屋は大丈夫だろうかとか心配そうに呟いて、すぐさま駆け出していってしまった。 まったく、忙しない奴である。 呆れたように思いながら、藤内はそのまま孫兵が過ぎ去った後も窓を眺めていた。 そして思う。先ほどの孫兵の表情は儚げな雪のようであったな、と。 肌の色だけで言っているのではない。儚げな雪、まるで細雪のような頼りない、あのときの顔。 けれどもどうだ。今の慌てふためいて飼育小屋へと向かった孫兵の表情ときたら。まるで儚い細雪が牡丹に変わったのと同じではないか。 儚げな雰囲気を誇張しがちだが、厚く積もった雪というのは太陽の光にも溶けにくい。中々に図太いものなのだ。 それと同じで、彼も繊細なようで案外図太いのかもしれない。今までまったく気づかなかったけれど。 「分からん奴だなあ。でもまあとりあえず、お茶ぐらいは一緒に飲んでやるけど」 降りしきる雪から瞳を放す。それから藤内は背中を丸め寒さに震えながら、廊下を足早に歩き出した。
春はまだ、遠い。
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