床を踏みしめる微かな音が響き渡り、広い背中を通してぼくに伝わってくる。
 ぼくは微睡みながら先輩にしがみついていた。きっと先輩はぼくが起きている事に気付いていたはずなのに、何も言わずゆっくりと暗闇を歩んでゆく。
 医務室から長屋までの距離。先輩の足ならあっという間だったろう。それなのに随分長く感じたのはぼくの意識が朦朧としていた所為なのか、先輩の歩みが思った以上に遅かったのか。取り留めの無い事を考えながら、首に回す手を少し強めた。
 曖昧に揺らいでいた天秤が大きく傾いた。手が緩んだのとほぼ同時、体勢を立て直そうとする先輩から、ふと嗅ぎ慣れないにおいがして、現へと引き戻された。医務室で嫌という程嗅いでいる薬のにおい、それとは似ても似つかない、別の、何か。
 先輩、とぼくは言おうとした。けれども意思に反して唇は動こうとしない。
 先輩、先輩、先輩。
 何度も何度も吐き出そうとするのに、口は頑なに開こうとせず、言葉の塊は胸の奥へと溜まってゆく。得体の知れない感覚にぼくは身震いし、振り払うように緩んだ手を強く巻きつけた。ぐげ、と蛙の潰れたような音が響いて、先輩が振り返った。

「苦しいぞ、伏木蔵」

 その口調があんまりにもいつもの調子なので、ぼくはなんだかほっとして、「先輩」とようやく言う事ができた。ごめんなさいと付け足すのも忘れない。 
 先輩は二、三度咳をした後、今度は気をつけてくれよと呟いて、ぼくを背負いなおした。





 床を踏みしめる微かな音が響き渡り、幼い子どもの体温が背中越しに伝わってくる。 
 負った後輩は時折身じろぎしながら、ぼくの首に手を巻きつけていた。恐らく完全には眠っていないだろう。心地良さ気に微睡んで、長屋に着くのを待っている。
 ぼくはゆっくりと歩く。医務室から一年長屋までそれ程距離はないのだけれども、背に負う子の眠りを妨げないよう、慎重に歩を進めた。
 幼いぼくを負ぶってくれた先輩の事を思い出す。
 あの時感じたにおいの正体も今なら分かる。立ち止まり、闇に塗りつぶされた天井を仰ぎ見た。
 先輩。
 先輩、ぼくは。
 幾度も幾度も繰り返そうとした幼い気持ちが甦って、胸の奥を疼かせる。広い背中から伝わってきた振動と、馴染みのなかったにおい。先輩の背、沈黙したぼく。
 口を開き、小さく息を吸う。
 背後から回された手の力が緩まり、体温の高くなった体が重みを増した。
 どうやら完全に眠ってしまったらしい。細い息交じりに寝言が聞こえてくる。背負いなおそうとすると、不意に彼は呟いた。昔のぼくが躊躇い飲み込んだ一言を。
 振り向いて数度瞬きし、前を向いた。
 闇を見つめて、改めて背負いなおす。幸せそうに眠る後輩の押し当てられた口元から、もう一度、聞こえた。