忍たま長屋の一室で、滝夜叉丸は気だるい体を無理やり起こした。同室の筈の綾部喜八郎は、昨晩どこへ泊まったのやら姿が見えない。ままあることなのであまり気にかけなかったし、今はその方が良いとまで思っている。 寝間着から制服に着替えようと、布団から出た。途端、冷え切った風が戸の僅かな隙間から入ってくる。身を震わし、布団の中へ駆け戻りたくなる衝動を堪えて、滝夜叉丸は急いで制服へと着替えた。 (ありえん、この私が風邪などと) 油断をすればカタカタと震えそうになる体を両腕で抱く。制服に着替えたまでは良かったものの、布団も片付けてはいないし髪だって結ってはいない。もしも他人に――自分のライバルを名乗る三木ヱ門にでも見られたならば。杜撰な奴だと笑われるか、馬鹿にされるか。 そのどちらとも、自尊心の強い滝夜叉丸は許せなかった。想像の中で笑う三木ヱ門が何とも憎たらしく、風邪すら忘れそうになってしまう。 本当に忘れられたなら良かったのだが、そう簡単に体の具合の悪さが変わるわけもない。はぁ、と白い息を吐いて体に鞭打ちながら布団を畳み始める。 押入れをこじ開けながら、風邪の原因は何なのかと昨日のことを思い巡らす。 昨日は過酷な実習もなく楽といえば楽だった。午後、授業が終わった後体育委員会の集会に呼び出され、委員長の七松先輩に塹壕堀りに付き合わされた。いつも通りのことだ。滝夜叉丸は更に思考を巡らす。 ああ、そうえいば。 塹壕堀りが終わった後、土で汚れた躰を洗い流そうと風呂に入った。風呂から出た後直ぐに三木ヱ門に会って、何がしかの勝負をしたのだ。間違いない、それで湯冷めをしたのだった。 (くそっ) 布団を直しながら、悪態をついた。次は髪を結おうと机の上に置いてある鏡の前に座った。もうすぐ鐘の鳴る時間だろう。急がなければ。 そんなときだった。忍たま長屋の廊下でどたばたと騒がしい足音がする。四年らしくないその騒々しさは、容易に誰だか想像がついた。 果たしてその想像は当たった。足音は滝夜叉丸の部屋の前で止まり、続いてがらりと戸を開ける音がした。 「滝夜叉丸ー、髪結わせて!」 体育委員長七松小平太と並んで、滝夜叉丸の調子を狂わせる人物、斉藤タカ丸だった。 組は違うものの編入生ということもあり、学年一成績優秀な滝夜叉丸が勉強を教えることがある。タカ丸はタカ丸で滝夜叉丸の髪が綺麗なことに惚れこんだのか、時々朝やってきては髪を結わせてと頼み込むのだった。 いつもならば文句も言わずに(だが自惚れ発言は控えない)髪を結わせる滝夜叉丸だったが、今日は事情が違う。滝夜叉丸は断ろうとして、しかし断れば不信感を抱かせないだろうか、とも思いしばし沈黙した。 閉口した滝夜叉丸に、タカ丸はそれを応と受け取ったのか返事も待たず後ろに回りこんだ。滝夜叉丸はいささかぎょっとして、タカ丸が髪を結おうと伸ばしてきた手を振り払う。 「いや、今日は遠慮しておきます」 「ええ、何で。そういえば今日は髪に艶がないねぇ。もしかして調子悪い?」 髪の艶で人の調子を見るな! と一言言ってやりたかったが、こんなことで気力を使うのもなんなので何とか踏みとどまった。 タカ丸は人の気も知らず、滝夜叉丸の髪を掬い上げる。 「うーん、やっぱり今日は艶もないし張りだって失われている気がする……ちょっと失礼」 「な」 ぶつぶつ言っていたかと思うと、次の瞬間額を合わせられていた。よく熱を測るときに母親が幼子にするような行為である。何とも言い知れない恥ずかしさと悔しさで、滝夜叉丸の顔は深い朱に染まった。 「あ、熱い。滝夜叉丸、熱あるよ熱!」 そんなことは当に知っている、と言おうとして、視界が揺らぐのを感じた。直後、柔らかい布の心地と温かい体温が伝わってくる。ああ、これは何だというのだろう。 認識する前に、タカ丸の胸の中に倒れこんだ滝夜叉丸は意識を失った。
気がつけば布団の中であった。 鼻を突く薬の匂いと清潔な雰囲気。それと丁度タカ丸と額合わせをしたところに、冷たい布が乗っかっている。薄ぼんやりとした意識の中で、ああ此処は医務室なのだと思いつく。 「気がついたかい」 瞳を開けると真っ先に飛び込んできたのは六年生の善法寺伊作の姿だった。新野先生がいないときは大抵彼が医務室の部屋番をしている。ただしそれも授業がない休み時間に限るので、今は授業中ではないのだろう。 「結構長く寝ていたね。もう昼休みだよ。はい、お粥」 「はあ、ありがとうございます」 暖かい手からお粥を受け取ると、自分が意外と空腹であったことを思い知る。ずず、とほとんど飲み込むように口に入れ、御椀を床に置いた。同時に伊作から水と粉薬を貰い、苦さを我慢し飲み干した。 「まあ熱は高いけど只の風邪だから、じき良くなると思うよ」 伊作はそれだけ言うと立ち上がり、御椀を片付けに出て行ってしまった。滝夜叉丸は布団の中に潜り、清潔な天井をじっと眺めた。 部屋には一人きり。誰かが看病に来るわけでもなければ、他の怪我人や保健委員が来るわけでもない。 何故だか急に寂しい気持ちが湧き上がってきて、滝夜叉丸は戸惑った。病人は訳もなく孤独を感じたり、人恋しくなったりするとどこかで聞いたような気がしたが、自分までそうなってしまうとは。この成績優秀な己が常人なんかと一緒にされるのはたまらない。だから、わざと気がつかぬふりをしてさっさと寝てしまおうと思った。 しかし世の中思い通りにならないことばかりらしい。滝夜叉丸が瞳を閉じた瞬間、どたばたと朝とまったく同じ足音が聞こえてきた。 「滝夜叉丸ー!」 常ならば新野先生か保健委員が注意するところなのだが、あいにくと部屋には滝夜叉丸しかいなかった。注意する者もおらず、タカ丸は相変わらずの暢気そうな声を張り上げながら、ずかずかと医務室に足を踏み入れた。 「大丈夫、熱下がった?」 「……そんなにすぐには下がりません」 「そりゃそうだよねぇ」 あっはっはーと気楽そうな声に脱力する。彼は本当に自分が病人だということを分かっているのだろうかと疑問に思う。仮にも年上だというのに。 「何の用ですか」 尋ねてみれば、彼は傍までやってきて座り込んだ。頬にぴとりと手を当てて、熱を測る真似事をする。 「まだ熱いね」 「先ほど薬を飲んだばかりですから。……うつりますよ」 「あー大丈夫、おれそんなにやわじゃないから。幼い頃から風邪とか全然引かなかったんだよねー」 「……」 馬鹿は風邪を引かないと昔から言うが、あながち間違っていないのだな。 そんな失礼なことを思いながら、滝夜叉丸はタカ丸の手を払いのけることもしないで大人しくしていた。だが、大人しく寝ていた滝夜叉丸も、タカ丸の次の言葉には逆らわないわけにはいかなかった。 「元気がない滝夜叉丸ってさ、何だか儚い感じがするね」 「んなっ……」 儚い。最も馴染みのない言葉であり男として言われたくない言葉だ。滝夜叉丸は唖然とし、タカ丸の顔を穴が開くほど見つめた。 この男がどういう思いで儚いなどとほざくのか知れないが、滝夜叉丸としてはまったく嬉しくない。声を荒げて反論しようとしたが、出たのはげほげほと咳き込む音のみだった。 「うわ、大丈夫」 「平気です」 手を振り払い、体を丸める。げほげほげほ、と何回か咳き込むと少しだけ楽になった。静かになった医務室で、タカ丸がそれにしても、と呟いた。 「突然倒れるから驚いたよ。あのまま授業なんか受けていたらどうなっていたか」 「……そういえば、医務室まで運んだのは」 「ああ、おれだよ。滝夜叉丸、体型の割に軽かったから助かったなー」 またもやあっはっはー、と笑うタカ丸。癪には障ったが、感謝しないわけにはいかなかった。自慢や自惚れや、と悪評の高い彼でも一応年上に対する礼儀はちゃんとするほうである。ましてや自分を運んでくれたなら。 「ありがとうございました」 「いいっていいって。その代わり、風邪治ったらまた髪結わせて」 自慢の黒髪を触り始めるタカ丸に、滝夜叉丸は結局行き着く先は髪なのか、と妙に落胆してしまった。 |