ほつれた糸のような小雨が、やがて大降りになり暗い町を染め上げていく。
椅子にもたれてうとうとと微睡んでいたフレイは、開けられた扉の、その向こうから聞こえる淋しくも激しい音に目を覚ました。
テーブルの上、飲みかけのホットミルクはいつの間にか冷めきっている。立ち上がると同時に、遠くで雷鳴が轟くのが聞こえた。
「アーサー」
名を呼べば、雨水を滴らせたその人は苦笑いを浮かべた。
「帰ってくる途中で降られてしまいまして……」
「大丈夫ですか? 今、タオル持ってきますから」
「すみません」
急ぎ奥の小部屋からタオルを持ち出す。夫の傍へ駆け寄り、濡れた頭を包み込むように被せた。
そのまま滴る雨水を拭き取りにかかろうとしたフレイに、柔らかな赤の瞳が戸惑ったように揺れた。
「いいですよ。自分でできますから」
しかしフレイはいいえ、と首を振った。
偶には彼の妻らしくありたいと思ったのだ。
「遠慮しないで下さい」
「そう……ですか? ではお言葉に甘えて」
眼鏡を外し、お願いします、と彼が少しだけ頭を下げた。なるべく優しく丁寧に、彼の滑らかな金髪から水滴を取り除いていく。拭いきれずに落ちる雨粒が床へと吸い込まれていった。
頭から顔、それから首へ。
そこでやんわりと手首を掴まれ、制止された。
「ありがとうございます。そこまででいいですよ。後は着替えますから」
「……あっ、はい」
フレイは慌てて彼から離れ、すぐに濡れたタオルを片付けた。
どくどくと心臓の音が煩い。
穏やかに微笑む彼の、ルビーよりも優しい赤が一瞬ゆらりと――熱っぽく揺れた気がして。
知らず、頬が染まる。その熱の正体を、フレイはよく知っているからだ。
恋人期間を経て夫婦になってもうしばらくになるのに、彼には未だにこうして動揺させられてしまうことがある。
まるで片想いをしていた頃のようだ。それは恥ずかしくて、ちょっと悔しくもあって。でも決して嫌なわけではない。
いや、むしろ……。
「すみませんでしたね」
思考は夫の言葉によって中断された。寝間着に着替え終わったアーサーは、申し訳なさそうにフレイを見つめている。
謝罪の意味が分からず、フレイは首を傾げた。
「あの、何で謝るんですか?」
「眠っていたのに起こしてしまって」
「なんだ、そのことですか。私の方こそすみません。待ってるつもりが、先に眠ってしまって」
「いえ、元はといえば私が遅くなってしまったばかりに」
「お仕事なんだからいいんです、それより私が」
「いいえ、私が……」
「私……って、何だかこの応酬不毛な気がしてきました。もうやめにしませんか」
「……そうですね」
そこでお互いに苦笑を浮かべあった。
「あ、そうだ」
仕切り直しというわけでもないけれど、ふとした思いつきに、フレイは明るく声を上げた。
「冷えたでしょうから、ホットミルクでも飲みませんか? 私も飲みますから」
「ええ、では頂きましょうか」
ちょっと待っててくださいね、と彼を椅子に座らせて、調理台の前に立つ。
自分用に入れたミルクもすっかり冷めきってしまってる。これはこれで美味しいけれど、やはりこんな薄寒い雨の夜は体の芯まで温まりたい。ましてや雨に降られたアーサーは尚更だろう。
結婚後は大分マシになったとはいえ、少なからず不摂生な面を持ち合わせている夫のことである。風邪を引かれでもしたら大変だ。
牛乳と、適量の蜂蜜を垂らして少しだけ甘めに。温め終わったら彼用のマグカップにミルクを淹れて、飲みかけの自分用のカップに継ぎ足すのも忘れない。
軽くかき混ぜ、よしオッケー、と意気揚々振り返ったところで、何だかやけに楽しげな視線とかち合った。
「できましたよー……って、何でそんなに嬉しそうなんですか」
「いいものだな、と思いまして」
「へ?」
抽象的ともいえるアーサーの台詞にまったくぴんとこず、素っ頓狂な声を上げてしまう。けれど彼は相変わらず微笑んでいて、益々訳が分からなくなってきた。
とりあえず出来上がったホットミルクを彼の前に置いて、テーブルの向かい側に腰掛ける。一口、二口、口に流し込むと、体の奥からふんわりと温まるようで心地がいい。
アーサーも同じようにゆったりとマグカップに口をつけた。
しばし穏やかな無言の時を過ごした後、最初に言葉を発したのはアーサーの方だった。
「先ほどはああ言いましたが、妻が帰りを待ってくれるというのは、とても嬉しいものですね」
「それがさっき言ってた、いいもの、ですか?」
「正確に言うならそれも、ですね。雨に濡れた私を気遣ってすぐにタオルを用意してくれたり、ミルクを温めてくれたり、こうして二人で穏やかな時を過ごせたり――あなたが私の妻でいてくれること。その全てが」
あまりに何でもない笑顔でさらりと言ってのけるものだから、もう少しでマグカップを落としてしまうところだった。
頬にどんどん血が上っていくのを感じる。誤魔化す様に下を向いて、両手でぎゅっとマグカップを挟んだ。
「ちょ、ちょっと大げさじゃないですか」
「そんなことはないですよ。可愛らしいあなたの姿を見る度に実感します。私は本当に幸せ者なのだと」
「ううう、ずるいですよ。アーサー」
些か甘やかすぎる言葉に対して、せめてもの抵抗に彼の顔を睨み付けるけれど、真っ赤になっている頬は嘘をつけない。
アーサーは益々笑みを深くして、とても楽しげだ。
「何だか残ってた眠気も一気に吹き飛んじゃいましたよ」
軽く息を吐きつつフレイは呟いた。室内は薄っすらと冷えているのに、頬は未だに熱を帯びているだろう。
まったく、彼には敵わない。
恥ずかしくて悔しくて。
けれどそれ以上に。
もう、なすすべもない程に。
嬉しいと思ってしまうのは――
「では」
囁くような声が耳を撫でた。カップを口から放し、フレイは向かいのアーサーを見つめる。
彼はもう笑っていなかった。フレイの顔をとらえて離さない、眼鏡の奥、穏やかな筈の赤色が今また、熱を帯びている。
「眠れなくしてしまった責任でも取って差し上げましょうか?」
揺らめく瞳。密やかに低い声。
この人は本当にずるい。
そんな顔で、そんな声で。どうしてフレイが抗えなくなるような台詞を吐き出すのだろう。
……どうして、こんなに愛おしくてたまらないのだろう。
雷鳴は聞こえない。いつの間にか雨の音も弱まりはじめているようだった。
最後の一滴を流し終え、テーブルの上にマグカップを置く。
返事の代わりに鳴ったその音は、静寂が戻り始めた夜の中、やけに大きく響いた気がした。
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