セルフィアにバレンタインなる行事があるのを知ったのは、その前日の事だった。
 農作業を一通り終えた後、疲れと汚れとを落とすために旅館へ向かったフレイは、戸を開けようとしたところで、飛び出してきたシャオパイとぶつかってしまった。

「ああ、すまない! 大丈夫か、フレイ」
「ええ、私の方は……。シャオさんこそ大丈夫ですか?」
「ワタシは大丈夫だが。おっと、急いでいるようだ。悪いが、またな!」

 言葉通り、とても忙しい様子でシャオパイは駆けていく。どうしたんだろう、そんなに急いじゃ危ないだろうに、と心配になりつつもフレイは旅館へと足を踏み入れた。女主人に代金を払って、風呂場へと向かう。
 一通り湯につかりさっぱりしたところでロビーに出てくると、柔らかな、それでいて少し困ったような声で名前を呼ばれた。

「フレイちゃん。申し訳ないんですけど、ちょっと頼まれごとをしてもらってもいいですか」
「はい。何ですか?」
「実はシャオちゃん、雑貨屋さんに買い出しに行ってるんです。でも財布を忘れてしまったみたいで。もしお時間があるのなら、届けてもらいたいんですけれど」
「いいですよ。私も後で行こうと思ってましたし」
「わあ、ありがとうございます。私はここを離れるわけにはいかないし、困っていたんですよ」
「でもシャオさんが雑貨屋に向かってから結構時間が経っていますけど」

 彼女が飛び出して行ったのはフレイがお風呂に入る前だから、財布がないという事に気付いていてもおかしくない。すれ違いになったら困るんじゃ……と懸念するフレイに、リンファはおっとりと微笑んだ。

「あ、それは多分ないですね。シャオちゃんに買い物を頼むといつも色々あって割と遅めに帰ってくるんですよ。それに今日は雑貨屋さんも混んでるでしょうから。今頃棚の前で順番待ちをしてるんじゃないかしら。まあ、すれ違ったらすれ違った時ですよ」
「それならいいんですが……あの、リンファさん。さっきから気になってたんですけど、明日何かあるんですか?」

 最近忙しくてカレンダーを見るのも疎かになっていた。
 オーダーで開催した行事でもないようだし、フレイはどこかうきうきとしながら、リンファの言葉を待った。

「あら。そういえばフレイちゃんは知らなかったんですね。明日はバレンタインなんですよ」

 バレンタイン。耳慣れない単語に、フレイは目を瞬かせた。

「それは一体どういうことをするんですか?」
「そうですね。簡単にいえば、女の子が好きな相手にクッキーを送る日でしょうか」
「え!?」
「シャオちゃん、張り切ってましたよ。お世話になっている人たちに配るんだって。私はもちろんシャオちゃんにあげるつもりです♪」
「あ、あはは、そうなんですか」

 好きな相手、というから思わずどきりとしてしまったが。何てことはない、友人やら家族やら、普段お世話になっている人に、という意味らしい。
 思わずほっとするフレイの心中を察したのか、はたまたただの会話の流れか。リンファが楽しそうに言葉を紡ぐ。

「もちろん、本来は好きな男性に送るべきものなんですけどね」
「そ、そうなんですか」
「そうですよ。ね、フレイちゃん」

 彼女は悪戯な少女のように笑みを浮かべ、それからふっと、ある問いをフレイに投げかけてきたのだった。
 
 
 
 
 固く閉じた冷蔵庫の前で、フレイは腕を組み眉を寄せていた。
 あの後、リンファの言葉通り混雑していた雑貨屋の中、小麦粉の棚の前で順番待ちをしていたシャオパイに無事に財布を渡すことができた。ちなみに彼女はまだ財布を忘れたことに気付いていなかったようだ。
 その時に同じく雑貨屋で順番待ちをしていたマーガレットやクローリカらも交え、バレンタインの事を詳しく訪ねてみた。
 義理やら本命やらその他諸々、バレンタインに関する知識を手に入れたことで、フレイはますます頭を悩ますことになってしまった。
 とりあえずちょっと多目にクッキーの材料を買って帰りはしたものの、さて、どうするべきか。
 考え込むフレイの頭に、穏やかな声が響いてくる。

「きっかけって大事ですよね?」

 リンファから問われた言葉。あの時は間の抜けた返答をしてしまって、にぶい人なんですね、なんてからかうように言われてしまったけれど。
 きっかけ……きっかけか。
 今から焼き上げるこのクッキーは、今の関係を変えるきっかけになるだろうか。
 少しでも彼の気持ちに、波紋を投げかけることはできるのだろうか。
 思い悩んで、材料の準備すらはかどらない。

「……って、駄目だよね、考えすぎちゃ。もっと気楽に」

 そもそも彼だけでなく、町の人全員に配る予定なのだ。だから、これはあくまでも日頃のお礼なのであって。不慣れな姫の仕事を助けてもらっている、感謝の気持ちの表れなのであって。
 誰ともなしに言い訳をしながら、ひとまずクッキーを焼きあげてしまおうとオーブンの前に立った。




 ……までは良かったのだけれど。
 オーブンを開ける。甘い香りが漂い、狐色に焼きあがった菓子たちを眺めた。我ながら中々の出来だと一人満足げに頷く。
 さて、これで街の人々の分は焼き終わった。もちろん彼の分も。
 それなのに。
 この期に及んで悩み続けるなんてらしくない。余った材料を見つめて、一つ、ため息を吐いた。
 夜もすっかり更け、秋の涼やかさが部屋の中を過っていく。風に撫でられた頬は赤くなってはいないだろうか。そうなっていたところで、誰に見られるわけでもないのだけれど。
 近頃、こうやって調子がおかしくなる事があった。原因は分かっている。でも、どうしていいのかが分からない。
 だって、こんなことは初めてなのだ。
 少なくとも、記憶をなくしてからは。
 いや、記憶をなくす前だって、このような感情を抱いたことはなかったんじゃないだろうか。何となくそんな気がした。
 畑仕事に精を出していても、ダンジョンで戦っていても、鍛冶に勤しんでいても――気が付けば、アーサーの顔を思い浮かべている。今何をしているんだろう、きっと忙しく仕事をこなしているんだろうなあ、とか。  夕食を作っている最中に思い浮かべて、その流れでおにぎりやサンドウィッチやら、彼の好物をこしらえて夜食に持っていくことも最近増えた気がする。
 机に座り書類に目を通している彼が、フレイの来訪にぱっと顔を上げ嬉しそうに微笑む。それから少しだけ取り留めのない世間話をしたりして。
 それだけで満足だと、思っていた筈なのに。
 こうして今、リンファの言葉に触発されて、思い悩んでいる。
 それはつまり、現状に満足しきってないという事だ。
 感謝の気持ちだけじゃない、本当はもっと特別な気持ちを込めたいと思っているのだ。

「……よし!」

 焼き上げたばかりのクッキーを一つ抓んで思い切りよく口の中に放った。
 甘い味が口内に広がる。
 これでもう引き戻せない。余った材料と、あともう一つ加えて、彼の分を焼きなおしてしまおう。
 辺りは静まり返っていた。日付が変わるまであともう少しなのだ。




 街全体がどことなく浮かれた雰囲気だ。
 朝一番の農作業を終えて、広場へと繰り出した。広場の隅ではマーガレットたちが楽しそうに何事か話している。

「おはよう、フレイさん」
「おはよう」

 挨拶をしてクッキーを交換しあい、そのまま輪に加わってしばらくお喋りに興じた。
 フレイは渡す予定があるのかなんて、興味津々といった体でシャオパイが話を振ってきたりもした。
 友クッキーや義理クッキーではない。暗に本命がいるのかどうか、というのを訊かれているのだ。焦ったが、何とか有耶無耶のままでやり過ごすことができてほっとする。
 昨夜気合を入れなおしたばかりだというのに、当日になるとやっぱりどこか挫けた気分になってしまっていた。
 本当にもう! 
 不甲斐ない自分に喝を入れて、とりとめなく街をぶらつく。そうして出会った人たちにクッキーを配り回っていると、すぐに昼を回ってしまった。
 途中、ヴォルカノンやバド、ブロッサムたちに随分背を押されてしまったように思う。
 もしや自分の想いはとっくの昔に住人達に見透かされてしまっているのでは……と、空恐ろしいものを感じながら、メロディーストリートへ足を踏み入れた。
 偶然なのか何なのか、未だにアーサーの姿を見かけてはいない。会いたいような会いたくないような。そういう心の迷いが、彼の居そうな場所から自然に足を遠ざけさせているのかもしれない。
 ひとまず広場に戻ってみようか。そう思って雑貨屋の角を曲がった折、彼の姿を認めて足を止めた。
 アーサーはこちらに背を向けている為、フレイの存在には気づいていない。足取りからして、どうやら彼も広場に向かう途中のようだった。  声をかけなくちゃ。そう思うのに言葉が出ない。特別な動作なんて必要ない。いつものように挨拶をして、それとなく自然に渡せばいいだけの話ではないか。
 迷い悩む内にもアーサーの背中は遠ざかっていく。一言。一言だけでいい、彼の名前を呼んで引き留めなければ――。

「こんにちは、フレイさん」
「ひゃあ!」

 いきなりの挨拶に驚き、後ろを振り返る。
 悲鳴を上げられるとは思っていなかったのか、キールがびっくりしたように目を丸くしていた。

「ごめんね、驚かせちゃった?」
「ううん、私こそごめんね。あ、そうだ。はい、これ」
「え、コレ、ボクにくれるの?」
「うん」

 キールにはまだ渡していなかった。綺麗にラッピングされたクッキーを渡すと、彼の顔がみるみる綻んでいく。

「どうしよう。すっごい嬉しいや……。ありがとうね! フレイさん!」
「どういたしまして」

 それから少し世間話をして彼とは別れた。無論の事、アーサーの姿はとっくに見えなくなっている。
 手を振るキールにフレイも応えながら、バッグの中、残った一つに思いを馳せた。
 キールの背も広場へと消えていった。恐らく今頃男性陣は広場に集まり談笑しているだろう。そんな中これを渡しに行くというのは、さすがにハードルが高すぎる。

「……もう少し時間が経ってからにしよう」

 それまでダンジョン探索でもしておこうか。アーサーが居るであろう広場から背を向けて、飛行船通りへと駆けていく。




 もう少し、のつもりだったのだけれど。
 ちょっと、いや、かなり張り切ってしまった。
 空を見上げれば星は瞬き、住人達の喧噪も静まって、虫の音ばかりがしとやかに聞こえてくる。
 時刻は21時を回っていた。うう、とフレイは己の迂闊さに頭を抱えた。
 彼が一人になってから渡すつもりだったけれど、幾らなんでも時間が経ちすぎた。夜が遅い人だから眠ってはいないだろう。執務室で雑務を片付けているかもしれない。でも、そんな中でクッキーを渡すのはどうなんだろう。
 迷いつつも、足取りは執務室へ。
 アーサーは予想通り執務室に居るようだ。窓からもれる灯りをじっと見つめて立ち止まった。
 この期に及んでまだどこかで怖気づいている。
 どんな強敵を相手にした時だって、こんなにも臆病な気持ちを抱いたことはなかったのに。
 ただ、特別な日にプレゼントをするというだけで。
 ――そうだ、それだけのことじゃない。
 別に告白するわけでもない。いつも夜食を持っていくみたいに、さっと渡してさっと帰ればいいだけの話なのだ。心のどこかで何かを期待しているからこんなに躊躇ってしまうのだ。
 一先ず深呼吸。
 それからドアに手をかけて――

「おや、フレイさん」
「って、きゃああ!」

 背後からかけられた声に肩を震わし悲鳴を上げる。
 恐る恐る振り向けば、やはり声の主はアーサーであった。彼は困ったように微笑んで、すみません、と謝った。

「驚かせてしまったようですね」
「い、いえ。その、アーサーさん、今帰ってこられたんですか」

 キールの時といい、今日は驚いてばかりだ。誤魔化すように微笑み返し、質問を投げかける。

「ええ。ちょっと届け物をしに旅館まで行ってました」
「そうなんですか。灯りが点いていたのでてっきり執務室に居るものだとばかり」
「少しの間だからと灯りは点けたままにしてまして……あ、すみません。ここにいると冷えますね。中に入りましょうか。お茶ぐらいなら出しますよ。私に何か用があったのでしょう」
「あ、いえ。ここでいいです。すぐに終わりますから」
「そうですか?」
「ええ」

 下手に長居などしたらますます渡しにくくなりそうだ。もう余計な事は考えないで、ぱっと渡してしまおう。
 予想外の遭遇で開き直ったというか、半ばやけっぱちになりながら、フレイは目当てのものを取り出した。

「あの、クッキーです。良かったら貰ってください」
「え? 私にですか?」
「はい」

 言えた。
 遂に言えた。
 言えたんだ……!
 妙な達成感に浸りながら、一方でまた心配事が湧き上がる。
 はたして、声は裏返っていなかっただろうか? ちゃんと笑顔を浮かべられているだろうか? そして、そして。

「これは……ええと、今日がバレンタインだからですよね?」

 もちろん。本命です。だなんて、軽い調子で、あるいは冗談めかしてさらりと言ってのけてしまえばいい。
 それなのにどうして上手く言葉が出てこないのか。他の人には易々とできることが、彼相手だと何故こんなに躊躇われてしまうのか。
 いつの間にか心臓がバクバクと音を立てている。体温が上昇していくのが分かる。
 駄目だ。このままじゃ訝しがられてしまう。何でもいい。何か、何か言わなければ!
 これは、

「ただのプレゼントです」
「え?」

 ――私今、何て言ったの?
 極限まで焦った挙句に何とか滑り出てきた言葉は、本来の思惑とはまったく異なったもので。
 きょとんとするアーサーの顔を見つめながら、心中では彼以上に呆然としていた。
 よりにもよってこんな日に。いくらなんでも不自然すぎる。
 何かフォローを入れなければ。そう、悪戯半分、いつものように冗談です、なんて笑って誤魔化してしまえば。

「えっと、プレゼントなんです。バレンタインは関係なしの……」

 関係大ありだってば!
 自分で自分の台詞にツッコミをいれつつ、フレイはもう、ドツボに嵌っていた。こんな筈ではなかった。考えれば考えるほど、裏腹の言葉が口から零れ出てしまう。
 彼の目に、自分は一体どう映っているのだろう。願わくば動揺を悟られていませんように、と思いつつも、ここまできたらちょっと気付いて欲しいような気もして。心は複雑に揺れている。
 沈黙からややあって、アーサーが少し戸惑ったように口を開いた。

「あ、ああ。そうでしたか。ついカンチガイしてしまって……。お恥ずかしい限りです」

 それから彼はいつものように、

「ありがとうございます」

 と優しく微笑んでくれたのだった。




 部屋に帰り着くなり、フレイは豪快にベッドへと飛び込んだ。日課である日記も今日ばかりは書けそうにない。
 後悔と羞恥にひとしきりごろごろしていると、緊張の糸が切れた所為か、はたまたダンジョン探索の疲れの所為か、次第に微睡んできてしまう。
 明日の朝起こしに来るであろうビシュナルは、フレイの恰好にさぞや驚くだろう。彼には悪いがパジャマに着替える気さえ起きず、そのまま何もかもを忘れて眠ってしまいたかった。
 忘れたいはずなのに、眠りに落ちる前、思い浮かべてしまうのはやはりアーサーの顔だ。フレイの言葉に戸惑っていただろうに、快くクッキーを受け取ってくれた彼の事。
 昨夜フレイは、彼の心へ波紋を投げかけたいと思った。けれどそれはまったく予想外の、的外れなところへと飛んで行ってしまった。
 彼はきっと気付かない。
 あのクッキーだけは特別な……。
 ふう、と息を吐いて、頭から布団を被った。
 いつまでも考えていたって仕方ない事だ。終わったことはもうどうしようもない。
 明日も農業に探索と、朝から忙しいのだ。




 執務室の扉を閉め、部屋を見渡す。片付けておきたい書類と、整理すべき贈り物とで、机の上は煩雑だ。早く手を付けなければまた徹夜をする羽目になるだろう。
 机へと向かいながら、けれどアーサーは珍しく気もそぞろであった。
 夜遅くにアーサーを訪ねてきた彼女の予想外の言葉。
 何より、今この手の中にあるクッキーだ。
 彼女が町の住人達にクッキーを配って回っているのは知っていた。マーガレットが楽しそうに、彼女とクッキーの交換をしたと語っていたし、ポコリーヌは感激のあまり、空になった袋を抱きしめ涙を流していた。
 実際にその場面を見さえした。
 昼間、広場へ向かう道すがら。後方から彼女の声が聞こえた気がして振り向いた時の事だ。
 こちらに背を向けた彼女が、バッグを探り、ラッピングされた袋を取り出す。それをキールへと渡しながら、和やかに談笑する光景を。
 声をかけるのが躊躇われたのは、彼女たちがあまりにも楽しそうに見えた所為だろうか。
 結局二人に背を向けたアーサーは、広場へと続く階段を上っていった。
 それきり夜まで彼女とは会えず仕舞いだったのだが、まさかわざわざ執務室まで訪ねてきてくれるとは。
 夜更けの為にあまり話もできず、すぐに別れてしまったのは残念だったけれど。
 書類の整理もそこそこに、丁寧にラッピングされたそれを開ける。途端、甘い香りが良い具合に広がっていった。

「……これは」

 つまんで、袋から取り出す。出てきたのは通常の狐色とは違う、チョコレート色のクッキーだった。
 驚き、それをしばらく見つめ、考え込む。
 きっとフレイは皆に等しく、同じクッキーを配ったのだろう。そう考えるのが妥当だし、理に適っている。
 けれど、どうして。
 らしくもなく。
 彼女がアーサー只一人だけに、特別をくれたのだなんて。
 そんな――何とも都合の良すぎる想像を、してみたくなるのだろう。
 苦笑いを浮かべる。本当に、甘い考えだ。
 けれど。
 あくまでも、マーガレットからは話を聞いただけ。ポコリーヌは既に食べ終えた後。キールへのクッキーももちろん袋に入った状態でしか見ていない訳で。
 町の人々が同じものを貰っているのかどうかなど、アーサーには分からないし、今更確かめようとも思わない。
 だから、というのもおかしいが。
 チョコレートの香りに少しばかりの期待を。
 心の中で思いを抱くぐらいなら、せめて許されるのではないだろうか。