しばらく姿をくらますので。
委員会を終え自室に帰ってきた雷蔵を迎えたのは一枚の紙切れだった。文章自体は簡潔で走り書いたかのように乱暴な筆跡だが、隙間風にも耐えうるよう重石をのせている辺り妙なところで丁寧である。
にしても。
紙切れを片手に、雷蔵は首を捻った。何だか続きがありそうな終わり方だ。部屋をざっと見回してみたが、伝言の続きらしきものは見つからない。
よほど急いで書いたので、中途半端になったのだろうか。しかしそんな状況で重石に気を配れるものなのかと疑問に思う。
大体、くらますというのもおかしな表現だ。意図して書いたのか、切羽詰りより書きやすい表現を選んだのか。まるで分からない。
「おーい雷蔵、早く行かないと食いっぱぐれるぞー」
「ああ、うん。今行くよ」
紙を眺めて考え込んでいた雷蔵は慌てて振り向いた。開けっ放しの障子戸の前で、腹を撫でながら待っているのは八左ヱ門だ。雷蔵は紙切れを懐に仕舞うと、彼の元へと駆け寄った。
「三郎は先に食堂行ったのか」
「いや、しばらく姿をくらますそうだ」
「何だそりゃ」
先の雷蔵と同じように八左ヱ門も首を捻る。まったくもって、その言葉ほどかけるに相応しいものはない。無論、手紙とも言えぬ紙切れを残して消えてしまった三郎に、である。
「まあ、大方使いか何かだろ。学園長の前でも通りかかっちまったんじゃないのか」
「そうかな」
「何だ、出かける前の三郎は心配になるような面構えをしてたのか」
「それが会っていないんだ。置手紙……のようなものだけ残してあった」
「さっき見てた紙切れか」
「うん。どうも気になってね」
「ふうん、見せてもらっていいか」
懐に仕舞った紙切れを取り出し、八左ヱ門へと手渡す。
受け取った紙をためつすがめつ眺める彼の眉間が徐々に難しく寄せられていった。
「随分な走り書き――というか、殴り書きだな、こりゃあ。本当に三郎の字なのか」
「確かに乱暴だけれど、三郎の字だと思う。字癖がまるきり同じなんだよ」
「誰か別の奴が、三郎の字を真似て書いた可能性は」
「何が目的で」
「例えば、そうだな。誰かが勢い余って三郎を誘拐したが、同室者が気づいて騒ぐと不味いからとりあえず誤魔化す為に残したとか……しかしこんな半端なのじゃかえって不信感を煽るだけか。攫われる三郎の図も思い浮かばないしな」
自分で自分の案に駄目出しして、八左ヱ門は紙切れを雷蔵へと返した。途端に腹から鈍い音が響き、一つだけ分かった事がある、と八左ヱ門は真剣な顔をする。
「飯時に考え事をすると益々腹が減る」
「道理だ」
と同調はしたものの、雷蔵は迷っていた。このまま考えを打ち切りにして良いものかどうか。
雷蔵とて育ち盛りの身であるから、飯の事は大いに気になる。しかし三郎の事もやはり気になるのであった。
件の男が知ったら「わたしは夕飯と同等なのか」といじけてしまいそうな内容だが、雷蔵自身は真摯に迷い考えていたのだから仕方がない。
隣を歩む八左ヱ門へと問えば「飯食った後で考えればいいだろう」と答えるだろうが、生憎と彼は夕食の献立を思い出すのに忙しく、水面下で悩み続ける雷蔵には気づかなかった。
「おーい、雷蔵、八左ヱ門」
食堂までもう一角曲がるだけ、というところで、背後から声をかけられた。ややあって八左ヱ門の隣に並び立ったのは隣の組の兵助である。
「食堂行くんだろ。おれも一緒にいいか」
もちろんと雷蔵が返す前に八左ヱ門が手を伸ばし、朗らかに笑う彼の頬をやにわに引っ張った。「あだだだ、にゃにすんだよ!」と兵助は理不尽な仕打ちに憤怒したが、対する八左ヱ門は至って真面目な面持ちだ。
少しの間そうしていたが、手を放すと、一人で納得したよう頷いた。
「いきなりどうしたんだよ」
「三郎かもしれないからな、確かめた。でもどうやら違ったみたいだ」
「何がどうやらだ!」
抓まれた頬をさすりながら兵助は降って沸いた災難に顔をしかめる――かと思いきや、何やら考え込む素振りで、ふむ、と雷蔵の方に顔を向けた。
「雷蔵、もしかして困っているのか」
「え、うん、まあ」
「三郎が原因で?」
「思い当たることでもあるのかよ」
「残念ながら、大いにある」
本当に残念そうにため息をつく。ややあって口を開いた兵助の顔を見て、恐らくろくでもない話になるのだろうなと雷蔵は思った。
「三郎が何処へ行ったのか、二人とも知らないんじゃないか」
「兵助は知ってるのかい」
「知らないと言えたらどんなにいいか。三郎はな、茶菓子を買いに行った」
『は?』
思いもよらぬ答えにろ組二人は顔を合わせた。気紛れな学園長命ずるお使いか、それとも何かの隠語だろうか。
しかし兵助はどちらの問いにも首を振った。
「委員会で振舞う分だと。ほら、この前の予算会議で三郎の野郎、有耶無耶の内に通そうとした茶菓代を潮江先輩に見つかってしまっただろう。それで目論見は失敗に終わったわけだが、委員会会議に菓子を欠すわけにはいかないそうでな」
「しかし三郎の残した紙切れにはしばらく姿をくらますと」
「一週間も半日もしばらくには違いないだろう」
滔々と喋る兵助に、雷蔵と八左ヱ門ははあ、と頷く他なかった。
「出掛ける前に会ったんだ。見つけたのは偶然……というか見つかったっていうのが正しいな。何だかやけに機嫌良く色々喋ってくれたが、門をくぐる前に『もしも雷蔵が迷い悩んでいる様子だったら、わたしの言った事を全て打ち明けて欲しい』と頼んできた」
「一体何だって三郎はそんな訳の分からない事を」
「さてね。おれにもさっぱりだ。そうそう、土産を買ってくると言っていたぞ」
兎にも角にもこれで荷が下りたと兵助がしみじみ呟いた。
雷蔵も楽になりたいのは山々だったが、三郎の行き先が分かっただけで謎は未だ残っている。否、残っているだけならまだしも、増えてしまったのだからいよいよ困ってしまった。あまりに困惑したので八左ヱ門の言葉を少しばかり拝借する。
三郎、何だそりゃ。
再び思考の海へと潜りそうになった雷蔵だが、これについてはひとまず保留になった。
というのも食堂で頼む品は場で即決主義の兵助が、飛び込みかけた雷蔵に気づいたからである。
「雷蔵、一先ず夕飯だ。三郎の件は本人が帰ってきた後に確かめればいい。切羽詰った事態じゃないんだ。むしろこれ程平和で、阿呆らしく、傍迷惑な事も他にないぞ」
「……そうだよな」
「そうだそうだ。後で三郎を問い詰めればいいんだ。もちろん土産も貰う」
「おれは八左ヱ門のおかずを貰う」
「ちょっと待て兵助。何故おれがお前におかずをやらんといかんのだ」
「三郎の話で忘れられかけていたがな、頬の痛みはしっかり覚えているぞ」
「お前って案外しつこいのな」
げんなりとする八左ヱ門だったが、瞬間立ち直って、いいさその分三郎から土産を請求してやると宣言し、勇ましく角を曲がった。
よく考えると三郎の土産が菓子と決まっている訳ではないのだが、育ち盛りを絵に描いたような彼の、並々ならぬ期待を打ち破るのは酷なので黙っておく。
茶だったらがっかりするだろうな、と兵助は呟き、雷蔵は苦笑した。その場合三郎への問い詰めが若干厳しくなるかもしれないが、彼にとっては良い薬だと言わざるを得ない。
どちらにしろ三郎が帰ってこなければ始まらない話だ。
夕食が先決だという兵助の言葉はこれ以上ないほどに正しかった。角を曲がれば香ばしい匂いと賑やかな声が聞こえてくる。
さて今日は何にしようかと、雷蔵が悩み始めるのにさほど時間はかからない。
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