黒髪が床に広がっている。口を押し付ける瞬間に目が合った。この男はいつだって目を開けたままで、それがこちらを観察するような色をしているのには、ずっと前から気付いていた。逃げられないようにと押さえた腕は一寸も動かそうとせず、投げ出した足を暴れさせる事もない。

「何だ、しないのか」

 大きな、釣り上がった目を少し細めて、哂うでもなく蔑むでもなく、平然と物を言う。こんな状況で。こんな状況だからこそ? 血の臭いはもう、分からない。彼は待っている。お得意の、清ました顔をして。
 戸の向こうで雨が降っている。濡れた上着が気持ち悪い。結局、口を合わせることなく、彼の鎖骨に顔を埋める。嫌というほど嗅ぎ慣れた火薬の香が今は少しも感じられなかった。
 じりじりと雨音が通り過ぎてゆく。一瞬の光の後、鈍い雷鳴が遠く轟いた。なぞるように肩に噛み付くと、さすがに眉は寄せられたが、投げ出される言葉は一つもない。
 薄くできた歯形が細い灯りに照らされる様は不思議と艶やかで、もっと深く刻んでやりたいと思った。生唾を飲み込んで、口を開ける。
 肉の食い込む音は、降り続く雨音よりも鮮明に弾ける筈だ。



 長い事、戦場を走っていた。
 もう何日もろくに眠ってなかったが、気分は悪くない。むしろ高揚しているくらいだ。
 課題は終えた。戦もそろそろ潮時だろう。組の面々に死者はない。負傷した者はいたが、それでも上々と思わねばなるまい。
 帰ったら真っ先に何をしたい。幾日目かに友人が浮かべた問いかけがあった。寝る、と間髪入れず答えた小平太にいささかつまらなそうな顔をして、おれは女を抱きに行くねと、冗談めかして言う。精も根も尽き果てたといわんばかりに疲弊した表情だが、傍から見たら小平太も同じようなものだったろう。
 その級友も一足先に課題を終え、先に山を越えていってしまった。
 今頃はきっと布団の中だ。傍に女が居るかどうかは知らないが。
 己も早々に帰って惰眠を貪りたいものだ。しかし、学園までは山を一つ越えねばならない。常なら軽々登ってゆく山道が、途方もなく長く感じられる。気分は高揚していても、疲労は思ったより濃いようだった。
 黙々と獣道を行く。悪いことに、天候があまり芳しくない。降りだしたら面倒だと眉を顰めて足を速めたが、それもしばらくして緩めざるを得なくなった。
 人の気配だ。
 幸いにもこちらには気付いていないようで、小平太も気付かぬふりをしたまま通り過ぎようとしたのだが、どうも様子がおかしい。茂みの隙間からは後姿しか見えないが、山賊の類ではなく、普通の村人のような格好だ。山菜取りでもしているのか、しかしこの辺の村は今、戦に巻き込まれそれ所ではない筈である。とすれば、逃げてきたのか。もう少し身を乗り出すと、男が一心不乱に何かを貪っている事に気がついた。
 何故そこで興味を抱いてしまったのだろう。
 村人らしき若者は少しも気付かず、獣のように何かを喰らい続けている。
 麻痺していた鼻に、鈍く、顔を背けたくなるような臭いがついた。息もまともにつけぬ緊張感に、小平太は目を見開く。
 ようやく気付いた。男が何を抱き、喰らっているのか。
 それに気付いてなお、目を離すことができない。
 男は本当に美味しそうに、それでいて愛しそうに、その人の肌に噛り付いている。ごくりと鳴った喉に驚く。それが恐怖ばかりではなかったからだ。
 鼻先を雨粒が通り過ぎた。男の動きが止まる。影ごと縫い止められてしまったように。
 小平太は男の眼前に立った。それで、男を見つめた。男も小平太を見つめる。常軌を逸した行為をしていたというのに、細い瞳は思いのほかまともで、口元辺りにべたりと血がついているのを除けば、普通の顔をしていた。
 何をしてるんだ。掠れた声をかけてなお、男は平然とした様子であった。

「お前が抱いているのは」
「わたしの妻です」

 見たところ、十五、六程の女だ。柔らかそうな頬と、形の良い唇が印象的で、素朴な愛らしさが見受けられる。しかし今や、丸い瞳は濁り切り、露出した肌には酷い火傷の跡がある。先の戦で負ったのだろう。それでも男は女を愛しく抱き続け、煤けた着物を優しく剥ぎ取り、焼けた肌を貪り続ける。
 小平太は眉間を寄せた。ひやりとした汗が背を滑り落ちてゆくのを感じる。
 また、喉が鳴った。
 誰かの行為をこれほどまでにおぞましいと思ったのは初めてだ。とても人間の所業とは思えない。だが、何故立ち去る事ができないのか。どうして……どうしてこのような行為を、男の溢れんばかりの愛情を、理不尽な程の愛情を向けられた彼女を、己は見つめ続けているのだろう。
 喉を鳴らして。
 狂った人のように。獣のように。





 ほつれた糸のように降り始めた雨が、全身を染め上げてゆくのにさして時間はかからなかった。
 いつの間にか男は息絶えていた。一見しただけでは気付かなかったが、男もまた、体のどこかに致命傷を負っていたようだった。
 小平太はその場に立ち尽くしていた。雨に打たれる二人の夫婦を見つめていた。男は女の体を抱いたまま、女は男に抱かれたまま。斜めに刺す雨は二人の血の臭いと茂った草木の匂いすら消してゆく。二人の体も、獣が喰らって消えてしまうのだろう。何事もなかったかのように。
 それからはよく覚えていない。気がつくと長屋の一室の前に立っていた。夜中になっていたが、雨はまだ降り続いている。濡れた体はすっかり冷え切って、かじかんだ手は上手く動かない。幸い、小平太が手をかける間に戸は開いた。

「酷い格好だな」

 呆れたような声。久しぶりに顔を合わせたというのに随分な第一声だと、常なら軽口の一つでも返していただろうが。

「風呂ならもう全学年終わったから、気兼ねなく入れるぞ。さっさと入って……おい、どうした?」

 怪訝な顔をする彼の腕を取る。小さく開いた唇を無理矢理塞いで、部屋の中へ押し入った。同室者は不在だ。だからこそ、仙蔵は自ら戸を開いたのだろう。
 押し倒した床の上が雨水で濡れる。地面を叩く音が煩くて、後ろ手に戸を閉めた。それだけの理性は残っているんだな、とまるで見当違いの事を呟く彼の唇をまた塞ぐ。
 体が重い。全身泥でも纏っているようだ。それにとても眠たい。何故、このような事をしているのだろう。学園に帰ったら真っ先に寝ようと思っていた筈なのに。
 押さえつけた腕が熱い。いや、己の手が冷たいのか。仙蔵は顔を背けることもなく、小平太を見つめている。こちらの出方を窺うような素振りだ。
 訳も聞かずに、ただ静かに。
 理不尽だと罵る事もなく。
 その顔が、首筋が、肩が、腕が――濡れていく。幾度も落ちてゆく水滴が彼を染め上げる。男と女の姿が脳裏を過ぎった。愛した女の肌を、肉を貪る男。圧倒的で倒錯的な支配。
 あの時己は、羨ましいと思った。
 それがどれだけおぞましく、愚かな行為であっても。人の道を外れた者の狂気を目の当たりにして。
 羨ましくて仕方がなかった。
 男のように、男がしたように、ただ一人を支配する事ができたなら。内も外も、理不尽なまでに全てを。喰らいつくす事ができたなら。
 できないのは、分かっている。
 女は望んでいなかったのかもしれないが、仙蔵は違う。生きているのだ。死んで、いいようにされていた女とは違う。支配など、どうしてできようか。できないと知りながら、どうしてあの男の真似事をしようと思うのか。
 頭が鈍く痛む。雷鳴が轟きはじめた。
 もう、深く考えるのはよそう。
 思って、口を押し付けようとした瞬間、彼と目が合った。

 




 雨が強くなってきたようだ。
 黒い髪が床に広がっている。
 舌に刺さる血の味、吐き出して目を閉じた。いよいよ本格的に襲ってきた睡魔のおかげで体が重い。指すら動かすのが億劫で、抱いた体に頭を預けるようにした。
 眠りに落ちる前、一瞬、背中に回された腕の力が少し強まったような気がした。
 ひどく優しく、暖かだった。









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黒田豆狸様リクエスト、シリアスな小仙でした。
…しかしこれは果たしてシリアスなのでしょうか…。何だかかなり履き違えてしまってる感満載のような…。そしてオリキャラ出すわ微グロだわ遅くなってしまった上、やりたいで放題ごめんなさい…凄く楽しかったです…(お前)
珍しく(というか初めての)三人称小平太視点で、仙蔵はあまり喋りませんが「しょうがないやっちゃなー」とかまあそういうようなことを思ってます。

最後になりますが、黒田豆狸様、素敵なリクエストをありがとうございました!