飛び込んだ先をよく確認しなかったのは迂闊だったと言わざるを得ない。とにかく夢中だったのだ。
薄暗い室内に、一つきりの窓。埃と黴にまみれた陰気臭い室内に、毒蛙を追ってきた孫兵も些か顔を顰めてしまった。
おまけに、部屋の至るところに怪しげなつづらが置いてある。蓋が開きかけたつづらの一つをちらと覗けば、人間の髪の毛のような黒々としたものが見えて、余計に気味が悪い。
己の生き物が絡めば周りが見えぬと皆々から溜息を吐かれる孫兵も、このような場所は早々に立ち去りたいと焦る気持ちを抑えることはできなかった。幸い、部屋はそう広くない。迷い込んだ毒蛙を見つけるのは時間の問題だ。
何、つづらの陰にでも隠れているのだろう。
はやる気持ちそのままに、それでも根気強く丁寧に、部屋の隅から隅まで見てまわる。甲斐あって、小さなつづらが無造作に折り重なる隙間に、見慣れた蛙の姿を見つける。胸を撫で下ろし、その子を優しく捕らえて、振り向こうとした時だ。
「見〜た〜な〜」
視界一杯に入ったのは、苦痛に歪んだ武者の首、であった。
ひ、と顔を引きつらせ、腰を抜かすのも忘れて、呆然と立ち竦んでしまう。蛙だけはしかと掴んだまま――もちろん、力が入り過ぎないように加減はしているが、下手すればそれすらも忘れてしまいそうな程だ。
しかし少し経てば冷静になる。首ばかりが浮いて現れたと思ったが、よくよく見ればそれを両側から支える細糸が上から伸びていた。
「悪い悪い。冗談だよ」
少しも悪びれていない声と共に、音も立てず姿を現したのは、六年の立花仙蔵である。特に楽しんでいるような素振りは見せないが、かといってつまらなそうな様子でもなかった。
「この部屋を三年が訪れるなんて珍しいな。おまけに作法委員でもない生徒だ」
「はあ……」
「御覧の通り、気味が悪い場所だからなあ。石火矢格納庫よりも嫌われている稀有な部屋だぞ」
「そうなんですか。あの、それでは用が済んだので帰らせて頂きます」
「まあ待て。そう急ぐ事もあるまい」
茶でも飲まないかと続いてもおかしくなさそうなお気軽口調だった。絶妙に嫌な情報を会話の中に織り込んでおいて、こちらの心情が分からない人でもないだろうに、ほとほと困ったことを言う。
本来、それで黙って押し切られるような孫兵ではない。大体先程の悪質な冗談だって一寸ばかり腹に据えているのだ。忙しいので失礼します、とできうる限りの毅然とした態度で断りを入れる。
のに、彼は流水の如き素早さで、たった一つの出入り口を閉じてしまった。どころか、前に立って進路を阻もうとさえする。
その顔が、有無を言わさぬ笑みを浮かべていた。
「急ぐ事は、あるまい?」
さながら、獲物を捕らえた蜘蛛のようだと孫兵は思った。
もちろん、二人仲良く茶菓子を囲むような展開になるわけはない。
頼まれたのはつづらの掃除だ。立付けの悪い戸は逃亡防止に締め切られたまま。開けられた窓から申し訳程度に日光が入ってくる。
「探し物があったんだが、この際だから埃ぐらいは叩いてやろうかと思ってね。しかし生憎作法委員の面々は都合が悪い。いや、君がきてくれて助かったよ」
調子のいい人だ。孫兵は不服であったが、それと同時に意外に思うこともあった。
不必要な事はなるべく口に出さないような、どこか物静かな印象があったが、先程の悪ふざけといい、今の調子の良さといい、まるきり逆である。些か饒舌と言ってもいい。
印象通りならば、どれだけ助かったか。
あまり関わりのない先輩の新しい面を知ることができたからといって、この状況が慰められるわけでもあるまい。渡された叩きで厚く積もった埃を払う。ちなみに蛙は小さな籠に入れて懐にしまってある。
仙蔵は埃を払い終わったつづらを開けては中身を整理していた。黒々とした髪の毛だの、歯のかけた櫛だの、ひび割れた鏡だのをしげしげと眺めては、別のつづらに移したり、元に戻したりしている。
入っている品はおおよそ役に立ちそうにもない、あるいは壊れたものばかりだ。
この部屋は用具の墓場のような場所なのかもしれない。けれど、壊れてしまったものをいつまでも保管しているのは解せないし、次に仙蔵が手に取ったものは見た目には欠陥の見当たらぬ品であったから、この考えは外れている……のだろうか。
仙蔵に訊ねても「特別室」としか教えてくれないのが不気味なことこの上ない。「あんまり考えて手が留守にならぬように」と釘を刺されたので、ようやく考えを放棄する。余計な事は考えない方がいいと暗に言われたような気がした。
とにもかくにも、このような事は早く終わらせなければ。
急いた気持ちが仇となって、手をくるわせてしまった。二段重ねに置いてあったつづらを引っ掛け落としてしまう。「うわ!」中身を一目見た途端、薄ら寒い気持ちになった。ぶちまけられたのは本物と見紛うばかりの女の首だった。
「こんな処にあったのか」
平坦な声が後ろから聞こえたと思ったら、女の首がひょいと持ち上がる。手に取ったそれを仙蔵はまじまじと見つめ、満足げに口元をつりあげた。
「少々髪がもつれているが、真に美しいものは時を経ても変わらないね」
「美しい?」
「何か言いたげだな」
「いえ……」
思ったことが漏れてたらしい。
慌てて頭を振るが一度聞きとがめられれば逃してはくれない。
こうなったら自棄だと、孫兵は口を開いた。
「その、確かに造形は優れているかもしれませんが、美しいというのはぼくにはよく分かりません」
「何故?」
「美しいのは、生あるものだけではないでしょうか」
生きているものの全てが美しいと思うわけではない。孫兵にとって最も魅力的なのは、毒をはらみ、もしくは手のかかる危なっかしい生物たちだ。
けれどもそれらは生きていなければならない。光が消えてしまえば、切ない悲嘆に暮れることはあれど、美しさを見出すことはできなくなる。
どれほど愛した生き物でさえ。
「静物より生物か」
呟く仙蔵は、ボケているのか本気で言っているのか今一つかめない。この人は万事この調子なのだろうかと孫兵は少し呆れて、手に掛かった埃を軽く払った。
「ところでその首、何に使われるんですか」
「首実検の演習だよ。いつも同じような顔だと飽きてしまうだろう。それに、仕舞いっぱなしなのは可哀想だ。偶には使ってやらないとね」
端整な女顔は不平も言わず、仙蔵の手の中で物静かにしている。明らかに別の用途で作られたであろう彼女を使う方が可哀想なんじゃないか、と思わなくもなかったが、さすがにそこまで口を出すつもりはない。
もつれた女の髪を軽くほぐした仙蔵は、探っていたつづらをさっさと閉めた。つづらの埃は叩き終わってなかったし、中身の整理も済んだわけではないだろうが、目的さえ果たせば途中でも構わないらしい。
手伝わせてすまなかったなと平気な顔でのたまって、立付け悪い戸を一杯に押し開けた。
「あ、ちなみに」
陰気な部屋に差し込んできた薄明るい光に目を細めた。仙蔵は孫兵に背をむけたまま、右手でひさしを作っている。
「さっきのは冗談だからね」
投げられた台詞に孫兵は口を開いた。言葉は出ない。仙蔵は一度振り返って、孫兵の顔を見つめると微かに笑って出て行ってしまった。一体何が冗談なのか、訊ねる暇もなく。
いささか呆然としながら、女の首が入っていたつづらを閉める。二段重ねに積みなおして、短く息を吐く。開けっ放しの戸から流れ込む陽だけが柔らかい。
面倒な嵐は去った。ほっと懐を撫ぜると、毒蛙の入った籠が微かに身じろぐ。
そういえば己の目的こそもうとっくに果たし済みなのだ。思い出した途端どっと疲れが襲ってきて、早く出たいと願っていたにも関わらず、暫く部屋の中に突っ立ったままでいた。
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N様リクエスト、仙蔵と孫兵の話でした。
新鮮な組み合わせで、楽しく話をこね回すことができました!
しかしちょっと…いやかなり仙蔵が好き勝手しすぎた…下級生をからかって煙に巻いてそうな仙蔵が大好きなんですごめんなさい。
振り回されるのが慣れてなさそうな孫兵を書くのも楽しかったです(開き直り)
最後になりますが、N様、素敵なリクエストを本当にありがとうございました!
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