受けたばかりの毒刃が転がっている。
つり上がった眼をギラギラと光らせ、こちらを見つめるその様は獰猛な生き物のようで、思わず目を逸らしたくなる。腐った葉を踏んでそろりとこちらに近づいてくる彼は、一挙一動を見逃さないとでも言いたげな表情でうつ伏せに倒れた藤内を、視る。
「観念しろ、藤内」
優越でもなく哀れみでもなく、淡々と、最初からこうなることは分かっていたんだという素振り。さく、さくり。静かに距離を縮めてゆく。待つばかりの己に歯噛みするが、使い物にならない足を恨んだところでどうにもなるまい。
彼はやがて立ち止まり、藤内の顔をじっと眺めた。
こちらも負けじと睨んでみるものの、孫兵が怯んだ様子はまったくなく、では足でも掴んでやろうかと手を伸ばした。はずなのに動かない。片手どころか指の一本さえも。
孫兵は藤内を見下ろし続けている。いっそ無様だと罵ってくれればこちらも反論ができるのに、彼はひたすら薄い表情を浮かべていた。
土は冷たく体は熱い。眠気に似た衝動が襲い掛かってくる。そんな場合ではない、と頭では分かっているのに目の前が霞んでゆく。消えてゆく視界、最後に見たのはゆっくりと伸びてくる孫兵の手だった。
「まったくやってらんないよねえ」
がちゃがちゃと皿を洗いながら数馬が呟いた。
台詞こそ愚痴めいているが、その口調も表情も諦めの色が濃い。友人のそういうところが気に食わないと常々思っているものの、藤内は何も言わず、洗い終わった皿を受け取り丁寧に布で拭いてゆく。
それを別の者が受け取り、数枚ほどたまったらあるべき場所へと片付ける。
先ほどから延々と繰り返しているが、山のように積まれた皿を見るに、今だ終わる気配はない。
「まあでも、便所掃除じゃないだけついてたな。ぼくにしては珍しく」
「数馬。喋ってるといつまで経っても終わらないぞ。早くしなければ予習と復習の時間がなくなる」
「真面目だなあ。ぼくは今日はもう早く眠りたいけれどね。ああ、でもその前に風呂に入らないといけないのか」
本当に面倒だと数馬が小さく言って、皿洗いに没頭する。
生傷だらけの手が水にさらされている様を見て、藤内は大きく息を吐いた。
四年の頃に増え出した実習は、五年になってから益々数を増している。今日の課題は密書に扮した紙をそれぞれ一通ずつ持ち、終了時刻までに三通以上奪えることができれば合格という、比較的単純なものだった。
さて、不合格になった者は大抵恐怖の補習授業が待っている。今回も例に漏れずであったが、いつも同じでは面白くないという学園長の(迷惑な)思いつきによって、便所掃除&食堂の皿洗いになってしまったのだった。
一見楽そうだが、便所掃除班は一日で学園全ての便所を掃除しなければならないし、全学年分の皿を洗うというのも並大抵ではない。おまけに食堂のおばちゃんはこの際だからと古い皿を大量に持ち出してきて、洗うことを命じた。数馬がやってられないと嘆くのも頷けることである。
しかし一番辛いのは、実習が終わって一刻も経たぬ内に駆り立てられたことだった。
解毒剤を飲んで半刻しか経っていない藤内は今だ本調子ではなかった。相変わらず頭はがんがんと痛むし、手の痺れは抜け切っていない。皿を取り落としそうになり慌てるということが何度もあった。
隣の同級生はしきりに瞼を擦っている。自室で課題をやるのならうたた寝もできようが、このような状況にあってはそれも適わない。
何しろ背後では忍術学園最強のおばちゃんが目を光らせているのだ。うっかり皿でも割ろうものなら。いくら藤内でもこの体で飛んでくる包丁を避けるのは至難の業である。
そういえば、と数馬が口を開けた。
「水汲みまだ? 結構時間経ってるけれど」
「そういえばそうだな。っていうか水汲み係って誰なんだよ」
「左門だろ。さっき桶持って出てったぞ」
欠伸をかみ殺しながら言う同級生に、ああそっかと頷きかけ、藤内は顔を強張らせた。口に出した本人も今更ながら頬を引きつらせている。あーあと数馬がうんざり言って、皿を手渡してきた。うっかり滑らせそうになりながら、藤内はしかと皿を掴んだ。
「どうしてよりにもよってあいつが水汲み係なんだ」
「仕方ないだろ。係り決めがじゃんけんだったんだから」
「一体なんだってそんな適当な事を!」
「適当な事って。中々決まらないから藤内が公平にじゃんけんしようって言ったんじゃないか」
「気づかなかったおれたちが迂闊だったな」
「あああ、おれは何て馬鹿なことを」
思わず叫ぶ藤内の頬を、光陰の如く掠めてゆくものがあった。痛みより先に立つ恐怖。
恐る恐る振り返ると、忍術学園一強い女が絵にも描けぬ凄まじい形相で仁王立ちしていた。
「口を動かさんと手を動かせ」
こくこくと頷く藤内。そのまま外を指差され、代わりに水を汲みに行けと命じられた。一も二もなく肯定すると、慌てて食堂を飛び出した。
井戸に着くと藤内はその淵にもたれ、ふうと一息吐いた。
頭痛はまだ続いている。手の痺れも然り。水入れた桶なんか持って運べんのかな、とぼんやり思いながらゆるゆるとつるべを落とした。
夕方の風は優しい。癖のある髪が微かに揺れるのが心地よく、それが酷い眠気を誘う。あまやかな誘惑を断ち切るように藤内は頭を振る、と当然頭痛も酷くなる。縦揺れ横揺れ、脳をかき回されているようだ。びりびりと張り詰める手で押さえると、半分まで引き上げていたつるべが落ちていった。底の方で間抜けな音がする。
「最悪だ」
一人ごちた。ここで少し休みたいと思うものの、いやそれは駄目だと生来の真面目さが責め立てる……最もおばちゃんへの恐怖も多分に含まれているのだが。
気を取り直して井戸から水を引き上げる。さて食堂まで運ぼうかと思った瞬間、いきなり指の力が無くなった。わわ、と慌てて関節を曲げようと試みたものの、両の手、特に左の五指は緩いくの字を描いたまま動かない。
桶が重力に順じて地に落ちた。
ばしゃりとぶちまけられ、足元でみるみる染みになってゆく水を見て、五指どころか体中の力が抜けた。転がる桶を拾うのも馬鹿馬鹿しく思えて、藤内はその場にしゃがみこんだ。
孫兵の毒は解毒剤を飲んで尚、想像以上の効力を持って藤内の体を蝕み続けている。
最悪だともう一回呟いて、自由にならない指をわきわきと動かしてみた。
その様をひょいと覗き込む奴がいる。
「百足の真似のつもりか。足が大分たりないが」
「……そんなんじゃない」
彼流の冗談か?
それよりどっから現れた、という問いは気配を察せなかった己の迂闊を晒すだけなので飲み込む。こちらの不機嫌に気づいているのかいないのか、実習後だというのに疲れを感じさせぬ動きで悠々と桶を拾う孫兵に、藤内は苛々を募らせた。
指はまだ鈍い。桶を渡しかけた孫兵が止まる。
「水を汲むのか」
「そうだよ。桶、返してくれないか」
孫兵は一寸考える素振りを見せた。そこでどうして躊躇う必要がと思っていると、突然藤内めがけて手を伸ばしてくる。反射で避けたものの、しつこく追ってくる手にとうとう左手首をつかまれてしまった。振りほどこうとしたが、思いの外鋭い眼をする孫兵にその気も失せてしまう。
何だよ、と口に出した言葉にだけささやかな抵抗の色を込めた。
「まだ痺れが抜けないみたいだな」
「……それがどうした。お前には関係ないだろう」
「おかしなことを言う奴だな。関係はあるだろう。わたしが使用した毒だ。しかしそんなに効くとは思わなかったが」
「悪かったな。でも」
そのおかげでお前はおれに勝てたんだろう。
言い出しそうになって藤内ははっと息を飲んだ。下を向き唇を噛み締める。
負けたのは己の実力不足、孫兵に非があるわけではない。これじゃあまるきり八つ当たりで、そんな事で悔しさを晴らそうとしている自分が許せなかった。
静かに唾を飲み込んで顔を上げる。下級生の頃より更に表情が薄くなった孫兵は、まるで感情の読めない顔で藤内を見つめていた。
何となく視線を下に逸らす。
「ごめん。手、放してくれないか。桶も返してくれると助かる」
しかし孫兵は放さなかった。手首から掌、それからぴりぴりと緊張する指へと移動する。親指、人差し指、中指、薬指の第二関節辺りを順繰りに押されて、訳も分からぬまま藤内は慌てた。
最後に小指を押されると、火花に触れてしまったような刺激が走った。たまらず、く、と呻くとやっと手を放された。
「こんな指で水の入った桶を持てると思ってるのか」
はっきりと呆れた声。うっと詰まりながらも、藤内は孫兵を見据える。
「も、持てるに決まってるだろ」
「嘘をつけ。右もろくに動かないんだろう」
そこで上手い弁明ができない己はつくづく不器用だと思う。最も、何もかも分かりきった風情の彼相手に今更何を言ったところで無駄のような気もするが。
言葉に詰まった藤内を置いて、孫兵は井戸へと歩み寄った。見るも鮮やかな手つきで素早く水汲みを終えると、藤内の方を振り返り、食堂まで運んでやると言った。思いもかけぬ優しい言葉に耳を疑ったが、冗談ではないようだと分かると、藤内は首を横へ振った。
「いや、いい。おれが頼まれた仕事なんだ。おれが運ばなければ」
「運べるわけがない。まさか痺れが抜けるまで待つつもりか? 悠長なことを言っていると明日になってしまうぞ」
「悠長でもいい。お前は合格したんだ。そんなことをする必要はない」
「融通のきかない奴だなあ。わたしがいいと言っているのだからいいだろう」
「おれが嫌だというんだ」
両者一歩も引かない。つまらぬことで意地を張る孫兵をいささか意外に思いながら、藤内もまた意地を張り続ける。これ以上黒星を増やすわけにはいかない。
時は刻一刻と過ぎてゆく。
食堂で待つ同級生たちやおばちゃんの事はすっかり頭から吹っ飛んでいた。しばし埒の明かぬやりとりをしていると、遠くから馬の駆けるような音が聞こえてきた。それは徐々に近づいてきて、しかもおおーいと親しげに呼ぶ声までするのだ。両者口を閉ざし声のする方を見ると、それはこちらにまっすぐ向かってくる。脇に桶を抱えていた。
「やれやれやっと着いた。どこまで走っても井戸が見えてこないので、よもやわたしの知らないうちに別の場所へ移ってしまったのかと思ったぞ」
「別の場所に移っていた方が早くたどり着いたかもな……」
どこまで走ってきたのか、左門の服はボロボロで、おまけにしこたま汗を掻いていた。こんな状態で水を汲み帰ったとしても果たして食堂の主が入室を許してくれるかどうか謎である。
左門は自分の姿には頓着せず、井戸から水を汲み上げると、すぐさま走り出そうとする。その襟首をすかさず孫兵がつかまえ引き戻した。いつの間にこういう配慮をする男になったのかと藤内は思いつつ、助かったには違いないので密かに感謝した。今左門に彼方へ行かれては困る。
「ほら左門一緒に帰るぞ」
「構わんが……そういえば藤内はどうして此処にいるんだ」
「お前がいつまで経っても帰ってこないから代わりに水汲みに来たんだよ」
「でも孫兵が桶を持ってるじゃないか」
「こいつが返してくれないんだ」
「まだ意地を張るのか藤内」
「意地を張ってるのはお前だろう」
「何だか知らんが喧嘩はよせ。桶はわたしが持とう」
孫兵の手からひょいと桶を奪った左門がよし帰るぞ食堂はあっちか、と別の方向を指差しながらこれまた別の方向へ足を向けようとする。彼の襟首をつかんだままの孫兵が、違うこっちだと正しい方向へ体を持ってこさせた。
いつまで経っても治らぬ方向音痴に頭痛を酷くさせながら、藤内も二人の後ろを着いてゆく。
夕日は彼方の山に落ちかけ、辺りは暗色が強くなっている。ぽつぽつと出始めた星明かりに、大分時が経ってしまったのだと思い知らされた。
前方を行く二人の足は速い。景色に思いを馳せているとすぐに取り残されてしまう。歩みの遅い藤内に気づいた孫兵がゆっくりと振り返った。
彼は藤内を見つめていた。正確には藤内の指先を見ていた。薄暗がりの中、薄い表情だというのに眼だけは獲物を観察する獰猛な生き物のようにギラギラと光っていた。
その時、藤内は一つの考えに思い当たった。
孫兵がわざわざ自分の下へ来た理由。
痺れる指を押していく行為、桶を持ってやるといった彼らしからぬ優しさの訳。
ひょとして、彼は毒の効果を確かめにきたのでなかろうか。
どこまで効き目があるのか、痺れはどれほどのものなのか、解毒剤を飲んで尚、それは続くのか。
確信が欲しかったのかもしれない。桶を持てぬと意地になっていたのは、己が使った毒の効き目を確かめ、その効果に自信を持ったからではなかろうか。
仮に藤内が桶を持って食堂にたどり着けたなら、彼の自信は打ち崩されることになる、それは孫兵にとって許せるべきことではなかったのかもしれない。
少々穿った見方のような気もするし、孫兵がそうだと言わぬ限り推測の域を出ない。わざわざ自分の所にやって来たのも桶を持ってやろうとしたのも正真正銘、毒の抜けない体を思っての優しさかもしれない。そう思っていた方が気楽は気楽だ。
左門がまたあらぬ方に足を向けた。孫兵は向き直り、すぐさま正しにかかった。注がれなくなった視線にほうとため息を吐き、重い足を速めた。
頭を軽く押さえる。徐々にではあるが、頭痛も指の痺れも和らぎはじめていた。どちらにしろもうこんな目に遭うのはごめんだ。彼の毒を受けるのは今日で最後にしたい。
自分の実力不足を反省し補ってゆかねばならない。その為にさっさと皿洗いを終わらせ、予習と復習に勤しむのだ。
決意を新たにした藤内だったが、残念ながら易々とはいかなかった。すっかり待たされた面々はご立腹で、藤内と左門の二人はそれはもう長々とお叱りを受けることになったのである。
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リクエストその三、孫藤です。かなり間が開いてしまって本当に申し訳ありませんでしたたた。
一応五年設定です。勝手に年齢操作物にしてしまって良かったのだろうかと思いつつ、書くのは物凄く楽しくて止められませんでした…。
最後になりますが、素敵なリクエスト本当にありがとうございました!
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